鍵を返すとき
第28話 桜の季節
三月の終わり、桜の季節が訪れた。
でも、宮下さんの体調は、さらに悪化していた。
もう、車椅子から立ち上がることもできなくなっていた。
月曜日の午前、私は宮下さんの家を訪れた。
インターホンを押すと、妻が出迎えてくれた。
妻の顔には、深い疲労が浮かんでいた。
「いらっしゃい。今日もお願いします」
「よろしくお願いします」
私は靴を脱ぎ、リビングに向かった。
宮下さんは、車椅子に座っていた。
窓の外には、満開の桜が見えた。
「おはようございます、浩二さん」
私が声をかけると、宮下さんはゆっくりとこちらを向いた。
「ああ、井上さん」
「桜、見えますか?」
「ええ、きれいですね」
宮下さんは、窓の外を見た。
「今年の桜を、見ることができました」
宮下さんの声は、とても弱々しかった。
「娘と、昨日ベランダで見たんです」
「車椅子で」
宮下さんは、小さく笑った。
「娘が、桜の花びらを拾ってくれました」
「これです」
宮下さんは、手のひらを開いた。
そこには、ピンク色の花びらが一枚、大切に置かれていた。
「娘が、お父さんの宝物にしてって」
宮下さんは、涙を流した。
「嬉しかったんです」
その言葉に、私は胸が熱くなった。
私は血圧計を取り出し、宮下さんの血圧を測った。
上が百六十、下が百。
とても高い。
「血圧が高いですね」
「ええ、もう身体が限界なんでしょう」
宮下さんは、穏やかに言った。
「でも、大丈夫です」
「覚悟はできています」
宮下さんは、私を見た。
「井上さん、実は、昨日家族と話をしました」
「話を?」
「ええ」
宮下さんは、窓の外を見た。
「私が亡くなったら、どうしてほしいか」
「葬儀のこと、お墓のこと」
「全部、話しました」
宮下さんの声は、静かだった。
「娘は、泣いていました」
「でも、最後には笑ってくれました」
「お父さん、ちゃんと話してくれてありがとうって」
宮下さんは、涙を拭いた。
「私、やり残したことはありません」
「家族に、全部話せました」
「感謝も、愛も、全部」
宮下さんは、私の手を握った。
「だから、もう悔いはありません」
その言葉に、私は何も言えなかった。
ただ、宮下さんの手を握り返した。
今日は、リハビリはしなかった。
宮下さんの身体は、もうリハビリができる状態ではなかった。
代わりに、私は宮下さんの隣に座り、一緒に桜を見た。
「きれいですね」
「ええ」
宮下さんは、窓の外を見つめていた。
「井上さん、ありがとうございました」
「いえ」
私は、首を横に振った。
「私こそ、浩二さんに感謝しています」
「あなたに出会えて、私は変わりました」
宮下さんは、私を見た。
「変わった?」
「はい」
私は、頷いた。
「私は、ずっと逃げていました」
「患者さんと向き合うことから」
「責任を負うことから」
私は、宮下さんの目を見た。
「でも、あなたに出会って変わりました」
「あなたが、私に教えてくれました」
「逃げることをやめて、向き合うことを」
宮下さんは、小さく笑った。
「そうですか」
「私が、井上さんを変えたんですか」
「ええ」
私は、頷いた。
「浩二さんのおかげで、私はもう逃げていません」
「ちゃんと、向き合っています」
宮下さんは、涙を流した。
「それは、よかった」
「私も、誰かの役に立てたんですね」
その言葉に、私は涙が溢れてきた。
私たちは、しばらく黙って桜を見ていた。
窓の外では、桜の花びらが風に舞っていた。
美しい春の光景だった。
「井上さん」
「はい」
「約束、覚えていますか?」
「約束?」
「ええ」
宮下さんは、私を見た。
「最期まで、一緒にいてくれると」
「はい、覚えています」
私は、頷いた。
「必ず、一緒にいます」
宮下さんは、安心したような顔をした。
「ありがとうございます」
私は、宮下さんの家を出た。
車に乗り込み、エンジンをかけた。
宮下さんの時間は、もう長くない。
でも、宮下さんは穏やかだった。
家族と向き合い、やり残したことはないと言った。
それは、とても尊いことだった。
私は、最期まで一緒にいる。
その約束を、必ず守る。
私は、アクセルを踏んだ。
数日後の木曜日、私の携帯電話が鳴った。
宮下さんの妻からだった。
「井上さん、主人の容態が急変しました」
「すぐに行きます」
私は、すぐに車に乗り込んだ。
宮下さんの家に向かう。
心臓が、激しく鼓動していた。
宮下さんの家に到着し、玄関を開けた。
妻が、泣きながら私を迎えた。
「井上さん、主人が」
私は、急いでリビングに向かった。
宮下さんは、車椅子に座っていた。
娘が、宮下さんの手を握っていた。
「お父さん、井上さんが来たよ」
娘が、宮下さんに声をかけた。
宮下さんは、ゆっくりと目を開けた。
「ああ、井上さん」
宮下さんの声は、とても小さかった。
「来て、くれたんですね」
「はい、約束しましたから」
私は、宮下さんの隣に座った。
宮下さんは、小さく笑った。
「ありがとう、ございます」
宮下さんは、窓の外を見た。
桜の花びらが、風に舞っていた。
「桜、きれいですね」
「ええ、とても」
宮下さんは、娘の手を握った。
「美咲」
「はい、お父さん」
「ありがとう」
「お父さん」
娘は、大声で泣き始めた。
宮下さんは、妻を見た。
「あなたも、ありがとう」
「主人」
妻も、涙を流した。
宮下さんは、私を見た。
「井上さん」
「はい」
「あなたに、出会えて、よかった」
宮下さんの声は、かすれていた。
「あなたが、いてくれたから」
「私は、家族と、向き合えました」
宮下さんは、涙を流した。
「ありがとう、ございました」
その言葉が、最後だった。
宮下さんは、静かに目を閉じた。
娘と妻が、宮下さんに駆け寄った。
「お父さん!」
「主人!」
二人は、大声で泣いた。
私は、その場にいた。
宮下さんの最期に、立ち会った。
約束を、守ることができた。
でも、涙が止まらなかった。
宮下さん、ありがとうございました。
あなたに出会えて、私も幸せでした。
救急車が到着し、宮下さんは病院に運ばれた。
病院で、死亡が確認された。
私は、娘と妻に挨拶をして、病院を後にした。
車に乗り込み、エンジンをかけた。
宮下さんは、亡くなった。
でも、宮下さんは幸せだったと思う。
家族と向き合い、残された時間を大切にした。
やり残したことはないと言った。
それは、とても尊いことだった。
私は、涙を拭いた。
宮下さん、安らかに。
私は、アクセルを踏んだ。
家に帰る。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます