第27話 最期の願い

三月に入り、春の兆しが見え始めた。

 

でも、宮下さんの体調は、日に日に悪化していた。

 

木曜日の午前、私は宮下さんの家を訪れた。

 

インターホンを押すと、妻が出迎えてくれた。

 

今日の妻は、とても疲れた表情をしていた。

 

「いらっしゃい。今日もお願いします」

「よろしくお願いします」

 

私は靴を脱ぎ、リビングに向かった。

 

宮下さんは、車椅子に座っていた。

 

でも、今日は明らかに様子が違った。

 

顔色が悪く、呼吸が浅い。

 

「おはようございます、浩二さん」

 

私が声をかけると、宮下さんはゆっくりとこちらを向いた。

 

「ああ、井上さん」

 

宮下さんの声は、とても弱々しかった。

 

私は血圧計を取り出し、宮下さんの血圧を測った。

上が百五十五、下が九十五。

高い。

 

「血圧が高いですね」

「そうですか」

 

宮下さんは、小さく笑った。

 

「最近、ずっと体調が悪くて」

「病院には行きましたか?」

「ええ、昨日行きました」

 

宮下さんは、窓の外を見た。

 

「医者に言われました」

「もう、長くはないと」

 

その言葉に、私は息を呑んだ。

 

「長くない、ですか」

「ええ」

 

宮下さんは、私を見た。

 

「余命は、一ヶ月程度だと」

 

その言葉が、リビングに落ちた。

 

私は、何も言えなかった。

 

一ヶ月。

 

それは、あまりにも短い時間だった。

 

「浩二さん」

「はい」

「お辛いでしょう」

「いいえ」

 

宮下さんは、首を横に振った。

 

「もう、覚悟はできています」

「家族にも、昨日話しました」

 

宮下さんは、涙を流した。

 

「娘は、泣いていました」

「妻も、泣いていました」

「でも、二人とも言ってくれました」

「最期まで、一緒にいるって」

 

宮下さんの声は、震えていた。

 

「私、幸せです」

「家族と、ちゃんと向き合えて」

「残された時間を、一緒に過ごせて」

 

その言葉に、私は胸が詰まった。

 

「浩二さん、あなたは間違っていません」

「家族に話して、よかったです」

「ええ」

 

宮下さんは、頷いた。

 

「井上さんのおかげです」

「あなたがいてくれたから、話せました」

 

宮下さんは、私の手を握った。

 

「ありがとうございます」

 

その言葉に、私は涙が溢れてきた。

 

私は、宮下さんの関節可動域を確認し始めた。

 

でも、今日は宮下さんの身体がとても硬い。

動かすのも、辛そうだった。

 

「浩二さん、今日はリハビリは軽めにしましょう」

「お願いします」

 

私は、無理のない範囲で、宮下さんの身体を動かした。

 

リハビリを終え、宮下さんを車椅子に座らせた。

 

「お疲れ様でした」

「ありがとうございます」

 

宮下さんは、大きく息を吐いた。

 

私はカバンを片付け始めた。

 

その時、宮下さんが話し始めた。

 

「井上さん、お願いがあります」

「何でしょうか?」

 

宮下さんは、私を見た。

 

「最期まで、一緒にいてくれませんか?」

 

その言葉に、私は少し驚いた。

 

「最期まで、ですか」

「ええ」

 

宮下さんは、頷いた。

 

「私が、この世を去るとき」

「あなたにも、そばにいてほしいんです」

 

宮下さんの声は、確かだった。

 

「あなたは、私の秘密を一緒に抱えてくれました」

「家族に話す勇気をくれました」

「だから、最期もあなたと一緒にいたいんです」

 

その言葉に、私は何も言えなかった。

 

ただ、涙が溢れてきた。

 

「分かりました」

 

私は、そう答えた。

 

「最期まで、一緒にいます」

 

宮下さんは、涙を流しながら笑った。

 

「ありがとうございます」

 

私は、宮下さんの家を出た。

 

車に乗り込み、エンジンをかけた。

 

宮下さんの余命は、一ヶ月。

 

それは、あまりにも短い時間だった。

 

でも、宮下さんは覚悟を決めている。

家族と、最期まで一緒にいる覚悟を。

 

そして、私も一緒にいる。

 

それが、私にできることだった。

 

私は、アクセルを踏んだ。

 

次の訪問先に向かう。

 

午後、私は吉岡さんの家を訪れた。

 

インターホンを押すと、ヘルパーが出迎えてくれた。

 

「お疲れ様です」

「お疲れ様です。今日の様子はどうですか?」

「今日は、わりと落ち着いていますよ」

 

私はリビングに入った。

 

吉岡さんは、ソファに座ってテレビを見ていた。

 

「こんにちは、吉岡さん」

 

私が声をかけると、吉岡さんはゆっくりとこちらを向いた。

 

「あら、井上さん」

 

今日は、私の名前を呼んでくれた。

 

「今日は、足のリハビリをしましょうね」

「ええ、お願いします」

 

私は、吉岡さんの隣に座った。

 

リハビリを始める。

 

吉岡さんは、穏やかに私の手に従っている。

 

「吉岡さん、最近調子はどうですか?」

「ええ、まあまあよ」

 

吉岡さんは、小さく笑った。

 

「健三のことは、まだ思い出すの?」

 

私が尋ねると、吉岡さんは窓の外を見た。

 

「時々ね」

「でも、最近は少なくなったわ」

 

吉岡さんの声は、静かだった。

 

「忘れることが、多くなったの」

「健三のことも」

「あの日のことも」

 

吉岡さんは、涙を流した。

 

「それが、いいのか悪いのか分からないわ」

 

その言葉に、私は何も言えなかった。

 

認知症は、記憶を奪っていく。

夫のことも、あの日のことも。

 

それは、残酷なのか。

それとも、優しいのか。

 

私には、分からなかった。

 

でも、一つだけ分かることがあった。

 

吉岡さんは、今を生きている。

 

過去の苦しみから解放されて、今を生きている。

 

それが、吉岡さんにとっての救いなのかもしれない。

 

リハビリを終え、吉岡さんをソファに座らせた。

 

「お疲れ様でした」

「ありがとう、井上さん」

 

吉岡さんは、私の名前を呼んだ。

 

でも、次の瞬間。

 

「あれ、あなた誰だっけ?」

 

吉岡さんは、不思議そうに私を見た。

 

また、記憶が途切れた。

 

私は、小さく笑った。

 

「井上です」

「そう」

 

吉岡さんは、穏やかに笑った。

 

私は、ヘルパーに挨拶をして、家を出た。

 

車に乗り込み、エンジンをかけた。

 

吉岡さんは、忘れることで救われている。

田中さんは、話すことで救われた。

宮下さんは、家族と向き合うことで救われている。

 

みんな、秘密との向き合い方が違う。

 

でも、それでいい。

 

人それぞれ、秘密との向き合い方がある。

 

そして、私はその秘密を一緒に抱える。

 

それが、私にできることだった。

 

私は、アクセルを踏んだ。

 

家に帰る。

 

その夜、私はベッドに横になった。

 

宮下さんの言葉が、頭の中で繰り返される。

 

最期まで、一緒にいてくれませんか?

 

その言葉が、胸に重くのしかかっていた。

 

でも、同時に、とても尊いことだと思った。

 

宮下さんは、私を信頼してくれている。

最期まで一緒にいてほしいと、頼んでくれた。

 

それは、どれほど大きな信頼だろうか。

 

私は、その信頼に応えたい。

 

最期まで、一緒にいる。

 

それが、私にできることだった。

 

私は、目を閉じた。

 

宮下さん、ありがとうございます。

 

あなたを、最期まで支えます。

 

必ず。

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