第26話 共に歩む道
二月に入り、寒さが一段と厳しくなった。
でも、私の心は温かかった。
宮下さんは、毎週末を娘と過ごしている。
田中さんは、娘との関係が深まっている。
吉岡さんは、穏やかな日々を送っている。
みんな、それぞれの時間を大切にしている。
そして、私も変わった。
もう、逃げていない。
火曜日の午前、私は田中さんの家を訪れた。
キーボックスに手を伸ばし、暗証番号を入力する。
2784。
蓋が開き、鍵を取り出す。
玄関を開けると、いつもと同じ畳の匂いがした。
「おはようございます」
声をかけたが、返事がなかった。
いつもなら、すぐに返事が返ってくるのに。
私は、少し不安になった。
「田中さん?」
もう一度声をかけた。
それでも、返事がない。
私は、急いで居間に向かった。
田中さんは、座椅子に座っていた。
でも、様子がおかしかった。
顔色が悪く、目を閉じている。
「田中さん!」
私は、駆け寄った。
田中さんの肩を揺すった。
「田中さん、大丈夫ですか?」
田中さんは、ゆっくりと目を開けた。
「ああ、井上さん」
田中さんの声は、とても弱々しかった。
「すみません、ちょっと気分が悪くて」
「すぐに救急車を呼びます」
「いいえ、大丈夫よ」
田中さんは、首を横に振った。
「ただ、少し疲れただけ」
でも、明らかに様子がおかしかった。
私は、田中さんの血圧を測った。
上が百六十、下が百。
かなり高い。
「田中さん、血圧がとても高いです」
「病院に行きましょう」
「いいえ」
田中さんは、私の手を握った。
「井上さん、お願い」
「このまま、ここにいさせて」
その言葉に、私は戸惑った。
「でも」
「お願い」
田中さんの声は、弱いが、確かだった。
私は、少し迷った。
でも、田中さんの意思を尊重することにした。
「分かりました」
「でも、娘さんに連絡はさせてください」
「……ええ」
田中さんは、小さく頷いた。
私は、携帯電話を取り出し、田中さんの娘に連絡した。
娘は、すぐに駆けつけると言った。
私は、田中さんの隣に座った。
「井上さん」
「はい」
「ありがとう」
田中さんの声は、かすれていた。
「あなたに、話せてよかった」
「私の秘密を」
田中さんは、涙を流した。
「一人で抱えたまま死ななくてよかった」
その言葉に、私は胸が詰まった。
「田中さん、まだ大丈夫です」
「娘さんも、すぐに来ます」
「ええ」
田中さんは、小さく笑った。
「でもね、井上さん」
「私、もう疲れたの」
田中さんは、窓の外を見た。
「八十六年、生きてきた」
「秘密を抱えて、七十年以上生きてきた」
「でも、もう疲れた」
田中さんの声は、穏やかだった。
「井上さん、あなたに会えてよかった」
「あなたがいてくれたから、娘にも話せた」
「秘密を、一人で抱えなくてよくなった」
田中さんは、私の手を握った。
「ありがとう」
その言葉に、私は涙が溢れてきた。
「田中さん」
「もう、いいのよ」
田中さんは、小さく笑った。
「私は、幸せだった」
その言葉が、最後だった。
田中さんは、静かに目を閉じた。
私は、田中さんの手を握ったまま、呼びかけ続けた。
でも、田中さんは答えなかった。
しばらくして、田中さんの娘が到着した。
娘は、田中さんの様子を見て、すぐに理解した。
「お母さん」
娘は、田中さんに駆け寄った。
そして、田中さんを抱きしめた。
「お母さん、ありがとう」
「秘密を、話してくれて」
娘は、大声で泣いた。
私は、その場を離れようとした。
でも、娘が声をかけた。
「井上さん、待ってください」
娘は、涙を拭いた。
「母から、聞いていました」
「井上さんが、母の秘密を一緒に抱えてくれたと」
娘は、私の手を握った。
「ありがとうございます」
「母は、井上さんに出会えて幸せだったと言っていました」
その言葉に、私は何も言えなかった。
ただ、涙が溢れてきた。
救急車が到着し、田中さんは病院に運ばれた。
でも、病院で死亡が確認された。
私は、その日の仕事を休んだ。
田中さんのことが、頭から離れなかった。
家に帰り、ソファに座った。
田中さんは、亡くなった。
でも、田中さんは幸せだったと言った。
秘密を一人で抱えなくてよくなったから。
それが、私にできたことだった。
私は、涙を拭いた。
田中さん、ありがとうございました。
あなたに出会えて、私も幸せでした。
数日後、田中さんの葬儀が行われた。
私は、参列した。
葬儀には、多くの人が集まっていた。
田中さんの娘が、挨拶をした。
「母は、長い間秘密を抱えて生きてきました」
「でも、最期には誰かと一緒に抱えることができました」
「それが、母にとって救いだったと思います」
娘の声は、涙声だった。
「母を支えてくださった皆様、ありがとうございました」
葬儀が終わった後、娘が私に話しかけてきた。
「井上さん、これを」
娘は、小さな封筒を渡してくれた。
「母が、井上さんに渡してほしいと言っていました」
私は、封筒を受け取った。
家に帰ってから、封筒を開けた。
中には、田中さんの手紙が入っていた。
『井上さんへ
あなたに出会えて、本当によかったです。
私は、七十年以上秘密を抱えて生きてきました。
それは、とても重く、苦しいものでした。
でも、あなたに話すことができました。
そして、娘にも話すことができました。
あなたがいてくれたから、私は救われました。
秘密を一人で抱えたまま死ぬことは、とても怖いことです。
でも、誰かと一緒に抱えることができれば、怖くありません。
あなたは、私の秘密を一緒に抱えてくれました。
それが、どれほど嬉しかったか。
ありがとうございました。
そして、お願いがあります。
あなたも、秘密を一人で抱えないでください。
誰かと、一緒に抱えてください。
それが、人として生きるということだと思います。
田中ハナ』
私は、手紙を読みながら、涙が止まらなかった。
田中さんの言葉が、胸に深く刻まれた。
秘密を一人で抱えないでください。
誰かと、一緒に抱えてください。
その言葉が、私を救ってくれた。
私は、もう一人じゃない。
宮下さんと、秘密を一緒に抱えている。
田中さんの秘密も、一緒に抱えている。
吉岡さんの秘密も、一緒に抱えている。
そして、坂井さんの妻にも、ちゃんと謝ることができた。
私は、変わった。
もう、逃げていない。
向き合うことを選んだ。
それが、私にできることだった。
翌週の月曜日、私は仕事に戻った。
最初の訪問先は、宮下さんの家だった。
インターホンを押すと、妻が出迎えてくれた。
「いらっしゃい。今日もお願いします」
「よろしくお願いします」
私は靴を脱ぎ、リビングに向かった。
宮下さんは、車椅子に座っていた。
「おはようございます、浩二さん」
「ああ、井上さん」
宮下さんは、私を見た。
「田中さんのこと、聞きました」
「ご冥福をお祈りします」
宮下さんの声は、静かだった。
「ありがとうございます」
私は、頷いた。
「井上さん、大丈夫ですか?」
「はい、大丈夫です」
私は、小さく笑った。
「田中さんは、幸せだったと言っていました」
「秘密を一人で抱えなくてよくなったから」
その言葉に、宮下さんは頷いた。
「そうですか」
「それは、よかった」
宮下さんは、窓の外を見た。
「私も、同じです」
「家族に話せて、よかった」
「一人で抱えなくてよくなった」
宮下さんは、私を見た。
「井上さん、あなたがいてくれて、本当によかった」
その言葉に、私は胸が温かくなった。
私は、リハビリを始めた。
田中さんは亡くなった。
でも、私には宮下さんがいる。
吉岡さんがいる。
そして、これから出会う人たちがいる。
私は、もう逃げない。
みんなと、一緒に歩んでいく。
それが、私にできることだった。
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