第24話 それぞれの時間
金曜日の午前、私は田中さんの家を訪れた。
キーボックスに手を伸ばし、暗証番号を入力する。
2784。
蓋が開き、鍵を取り出す。
玄関を開けると、いつもと同じ畳の匂いがした。
「おはようございます」
声をかけると、奥から返事が返ってくる。
「ああ、井上さん。今日もありがとう」
私は靴を脱ぎ、廊下を歩いて居間に入った。
田中さんは、座椅子に座っていた。
今日も、元気そうに見えた。
「田中さん、今日も調子がよさそうですね」
「ええ、おかげさまで」
田中さんは、小さく笑った。
私は血圧計を取り出し、田中さんの血圧を測った。
上が百二十、下が七十五。
とても安定している。
「血圧も、完璧ですね」
「そう。ありがとう」
私は、リハビリを始めた。
膝の曲げ伸ばし、立ち上がりの練習。
田中さんは、いつもと同じように、静かに私の手に従っている。
リハビリを続けながら、田中さんが話し始めた。
「井上さん、実は、娘が言ったの」
「娘さんが?」
「ええ」
田中さんは、窓の外を見た。
「お母さん、話してくれてありがとうって」
「戦争のこと、隣人のこと」
「全部、聞けてよかったって」
田中さんの声は、嬉しそうだった。
「娘はね、言ってくれたの」
「お母さんは、ずっと一人で抱えていたんだねって」
「辛かったでしょうって」
田中さんは、涙を流した。
「娘に、そう言ってもらえて」
「私、救われたの」
田中さんは、私を見た。
「井上さん、あなたに話したから、娘にも話せた」
「本当に、ありがとう」
その言葉に、私は胸が温かくなった。
田中さんは、娘に秘密を話した。
そして、娘に受け入れられた。
それは、とても尊いことだった。
「田中さん、勇気ある決断でしたね」
「いいえ、勇気じゃないわ」
田中さんは、首を横に振った。
「ただ、もう隠す必要がないと思っただけ」
「私も、もう長くないから」
その言葉に、私は少し驚いた。
「田中さん?」
「ああ、大丈夫よ」
田中さんは、小さく笑った。
「私はね、八十六歳なの」
「いつ死んでもおかしくない年よ」
田中さんは、窓の外を見た。
「でも、今は怖くないの」
「娘に話したから」
「井上さんに話したから」
田中さんは、私の手を握った。
「秘密を抱えたまま死ぬのは、怖かった」
「でも、今は違う」
「誰かと一緒に抱えているから」
田中さんの声は、穏やかだった。
「だから、もう怖くないの」
その言葉が、胸に響いた。
秘密を抱えたまま死ぬことの恐怖。
それを、田中さんは乗り越えた。
誰かと一緒に抱えることで。
リハビリを終え、私は帰る準備を始めた。
「また、火曜日に来ますね」
「ええ。待ってるわ」
田中さんは、穏やかに笑った。
玄関を出て、鍵をキーボックスに戻す。
蓋を閉める。
車に乗り込み、エンジンをかけた。
田中さんの言葉が、頭の中で繰り返される。
私も、もう長くない。
その言葉が、少し寂しかった。
でも、田中さんは怖くないと言った。
秘密を一緒に抱えてくれる人がいるから。
それは、とても尊いことだった。
私は、アクセルを踏んだ。
家に帰る。
その夜、私はベッドに横になった。
今日一日のことを、思い返していた。
宮下さんの病気は、進行している。
でも、家族と一緒に残された時間を過ごしている。
田中さんは、娘に秘密を話した。
そして、もう怖くないと言った。
吉岡さんは、今日私の名前を呼んでくれた。
でも、明日は忘れているかもしれない。
みんな、それぞれの時間を生きている。
残された時間を、大切にしている。
それが、とても尊いことだと思った。
私は、目を閉じた。
私も、残された時間を大切にしよう。
みんなと一緒に。
それが、私にできることだった。
週が明けた月曜日、私は宮下さんの家を訪れた。
インターホンを押すと、妻が出迎えてくれた。
今日の妻は、少し表情が明るかった。
「いらっしゃい。今日もお願いします」
「よろしくお願いします」
私は靴を脱ぎ、リビングに向かった。
宮下さんは、車椅子に座っていた。
そして、娘も一緒にいた。
「おはようございます、浩二さん」
私が声をかけると、宮下さんはこちらを向いた。
「ああ、井上さん。今日は娘も一緒なんです」
宮下さんは、嬉しそうに笑った。
娘は、私に会釈した。
「初めまして。井上さんですね」
「お父さんから、よく聞いています」
娘の声は、明るかった。
「こちらこそ。お父さんには、いつもお世話になっています」
私は、宮下さんの血圧を測った。
上が百三十、下が八十。
前回よりも、安定している。
「血圧も、落ち着いていますね」
「そうですか。よかった」
宮下さんは、娘を見た。
「実は、今日は娘と一緒にリハビリを見学したいと言ってくれて」
「お父さんが、どんなリハビリをしているか見たいって」
娘は、小さく笑った。
「将来、私も建築士になったら」
「お父さんみたいに、身体を大切にしないとって思って」
その言葉に、宮下さんは涙を流した。
「美咲」
「お父さん、泣かないで」
娘は、宮下さんの手を握った。
「お父さんは、私の目標なんだから」
その言葉に、宮下さんは大声で泣き始めた。
私は、その光景を見ながら、胸が熱くなった。
宮下さんは、家族に本当のことを話した。
その結果、娘との絆が深まった。
それは、とても尊いことだった。
リハビリを始める。
娘は、真剣に見ていた。
宮下さんも、いつもより頑張っていた。
娘に、自分の頑張る姿を見せたかったのだろう。
リハビリを終え、宮下さんを車椅子に座らせた。
「お疲れ様でした」
「ありがとうございます」
宮下さんは、少し息を切らせていた。
娘が、水を持ってきた。
「お父さん、お水」
「ありがとう」
宮下さんは、娘から水を受け取った。
その光景が、とても温かかった。
私はカバンを片付け始めた。
その時、娘が話しかけてきた。
「井上さん、ありがとうございます」
「いえ」
私は、首を横に振った。
「お父さんが、井上さんのおかげで変わったって言っていました」
「家族に話す勇気をもらったって」
娘の声は、感謝に満ちていた。
「私たちに、本当のことを話してくれて」
「最初はショックでした」
「でも、話してくれてよかったです」
娘は、涙を流した。
「お父さんと、たくさん話ができています」
「お父さんの人生を、たくさん聞けています」
「それが、とても嬉しいんです」
その言葉に、私は胸が詰まった。
「お父さんを、よろしくお願いします」
娘は、深く頭を下げた。
「はい、任せてください」
私は、そう答えた。
私は、宮下さんの家を出た。
車に乗り込み、エンジンをかけた。
宮下さんと娘の姿が、忘れられなかった。
二人は、残された時間を大切にしている。
それが、何よりも大事なことだった。
私は、アクセルを踏んだ。
次の訪問先に向かう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます