第22話 新しい一歩

翌朝、私は目を覚ました。

 

久しぶりに、清々しい気持ちだった。

 

昨日、坂井さんの妻に会った。

ちゃんと謝ることができた。

 

それだけで、心が軽くなった。

 

私は、ベッドから起き上がり、窓の外を見た。

冬の朝は、まだ冷たかったが、空は晴れていた。

 

今日は火曜日。

田中さんの訪問日だ。

 

私は身支度を整え、車に乗り込んだ。

 

田中さんの家に向かいながら、私は考えていた。

 

私は、変わり始めている。

 

秘密を抱え続けることをやめた。

逃げることをやめた。

 

そして、向き合うことを選んだ。

 

宮下さんと。

田中さんと。

吉岡さんと。

坂井さんの妻と。

 

みんなと、ちゃんと向き合うことを選んだ。

 

それが、私にできることだった。

 

午前十時。

田中さんの家の前に到着する。

 

キーボックスに手を伸ばし、暗証番号を入力する。

2784。

蓋が開き、鍵を取り出す。

 

玄関を開けると、いつもと同じ畳の匂いがした。

 

「おはようございます」

 

声をかけると、奥から返事が返ってくる。

 

「ああ、井上さん。今日もありがとう」

 

私は靴を脱ぎ、廊下を歩いて居間に入った。

 

田中さんは、座椅子に座っていた。

今日は、とても元気そうに見えた。

 

「田中さん、今日は調子がよさそうですね」

「ええ、とてもいいのよ」

 

田中さんは、明るく笑った。

 

私は血圧計を取り出し、田中さんの血圧を測った。

上が百二十五、下が七十八。

とても安定している。

 

「血圧も、とてもいいですね」

「そう。最近、よく眠れるようになったの」

 

田中さんは、窓の外を見た。

 

「井上さんに話してから、夢を見なくなったの」

「夢?」

「ええ」

 

田中さんは、私を見た。

 

「あの人の夢」

「裏切った隣人の夢」

 

田中さんの声は、静かだった。

 

「ずっと、夢に出てきていたの」

「悲しそうな顔をして」

「でも、井上さんに話してから、見なくなった」

 

田中さんは、小さく笑った。

 

「不思議ね」

「話すだけで、こんなに楽になるなんて」

 

その言葉に、私は胸が温かくなった。

 

田中さんは、私に秘密を話すことで、救われた。

 

それは、とても尊いことだった。

 

私は、リハビリを始めた。

 

膝の曲げ伸ばし、立ち上がりの練習。

田中さんは、いつもより積極的だった。

 

「田中さん、今日は身体の動きがいいですね」

「そうかしら」

 

田中さんは、小さく笑った。

 

「気持ちが軽くなると、身体も軽くなるのね」

 

その言葉が、真実だと思った。

 

心と身体は、繋がっている。

 

心が軽くなれば、身体も軽くなる。

 

宮下さんも、同じことを言っていた。

 

リハビリを終え、私は帰る準備を始めた。

 

その時、田中さんが話し始めた。

 

「井上さん」

「はい」

「実は、娘に話したの」

 

その言葉に、私は少し驚いた。

 

「娘さんに?」

「ええ」

 

田中さんは、窓の外を見た。

 

「戦争中に、人を裏切ったこと」

「隣人を密告したこと」

 

田中さんの声は、震えていた。

 

「娘は、最初驚いていたわ」

「でも、最後には言ってくれたの」

「お母さん、よく話してくれたねって」

 

田中さんは、涙を流した。

 

「娘は、私を責めなかった」

「ただ、抱きしめてくれた」

 

田中さんは、私を見た。

 

「井上さん、あなたのおかげよ」

「あなたに話したから、娘にも話せた」

 

その言葉に、私は何も言えなかった。

 

ただ、田中さんの手を握った。

 

「田中さん、勇気ある決断でしたね」

「いいえ、勇気じゃないわ」

 

田中さんは、首を横に振った。

 

「ただ、逃げるのをやめただけ」

 

その言葉が、宮下さんの言葉と同じだった。

 

逃げるのをやめる。

 

それが、向き合うということなのかもしれない。

 

「また、金曜日に来ますね」

「ええ。待ってるわ」

 

田中さんは、穏やかに笑った。

 

玄関を出て、鍵をキーボックスに戻す。

蓋を閉める。

 

車に乗り込み、エンジンをかけた。

 

田中さんも、娘に話した。

七十年以上抱えてきた秘密を。

 

それは、どれほど勇気のいることだっただろう。

 

でも、田中さんは話した。

 

そして、娘に受け入れられた。

 

それは、とても尊いことだった。

 

私は、アクセルを踏んだ。

次の訪問先に向かう。

 

午後、私は宮下さんの家を訪れた。

 

インターホンを押すと、妻が出迎えてくれた。

 

「いらっしゃい。今日もお願いします」

「よろしくお願いします」

 

私は靴を脱ぎ、リビングに向かった。

 

宮下さんは、車椅子に座っていた。

 

でも、今日は様子が違った。

 

顔色が悪く、呼吸が少し荒い。

 

「浩二さん、大丈夫ですか?」

 

私が声をかけると、宮下さんはゆっくりとこちらを向いた。

 

「ああ、井上さん」

「すみません、今日は少し体調が悪くて」

 

宮下さんの声は、弱々しかった。

 

私は血圧計を取り出し、宮下さんの血圧を測った。

上が百五十、下が九十五。

高い。

 

「血圧が高いですね」

「そうですか」

 

宮下さんは、小さく笑った。

 

「実は、昨日から少し熱があって」

「熱?」

 

私は、宮下さんの額に手を当てた。

少し熱い。

 

「病院に行きましたか?」

「いえ、まだです」

 

妻が、心配そうに宮下さんを見ていた。

 

「今日の午後、予約を入れています」

 

私は、頷いた。

 

「今日は、リハビリは中止にしましょう」

「身体を休めてください」

「でも」

「浩二さん、無理をしないでください」

 

私は、宮下さんの手を握った。

 

「身体が第一です」

 

宮下さんは、小さく笑った。

 

「分かりました」

 

私は、カバンを片付けた。

 

「また、木曜日に来ますね」

「その時には、元気になっていてください」

「はい」

 

宮下さんは、穏やかに笑った。

 

玄関で靴を履いていると、宮下さんの妻が声をかけてきた。

 

「井上さん、主人のこと、心配です」

「最近、急に体調を崩すことが多くて」

 

妻の声は、震えていた。

 

「病気が、進行しているんでしょうか」

 

その言葉に、私は何も言えなかった。

 

進行性の病気だ。

時間が経てば、必ず悪化する。

 

それは、避けられない事実だった。

 

「病院で、ちゃんと診てもらってください」

「はい」

 

妻は、涙を拭いた。

 

「ありがとうございます」

 

私は、宮下さんの家を出た。

 

車に乗り込み、エンジンをかけた。

 

宮下さんの体調が、心配だった。

 

でも、私にできることは限られている。

 

ただ、一緒にいることだけだ。

 

それが、私にできることだった。

 

私は、アクセルを踏んだ。

 

家に帰る。

 

その夜、私はベッドに横になった。

 

宮下さんの顔が、浮かんできた。

 

体調が悪そうだった。

 

でも、それでも笑っていた。

 

宮下さんは、強い人だった。

 

家族に本当のことを話し、向き合うことを選んだ。

 

そして、残された時間を家族と一緒に過ごしている。

 

それは、とても尊いことだった。

 

私は、目を閉じた。

 

明日も、ちゃんと向き合おう。

 

みんなと。

 

それが、私にできることだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る