第21話 償いの始まり

次の訪問先には向かわなかった。

 

代わりに、私はある場所に向かった。

 

坂井さんの家だ。

 

八年前、坂井さんが亡くなった後、私は一度も家族に会っていない。

葬儀にも参列しなかった。

 

会う資格がないと思ったからだ。

 

でも、今は違う。

 

私は、坂井さんの家族に会わなければならない。

 

ちゃんと、謝らなければならない。

 

車を走らせ、三十分ほどで坂井さんの家に到着した。

 

八年前と変わらない、静かな住宅街だった。

 

私は車を降り、坂井家の前に立った。

 

深呼吸をした。

 

心臓が、激しく鼓動している。

 

でも、ここで逃げるわけにはいかない。

 

私は、インターホンを押した。

 

しばらくして、応答があった。

 

「はい」

 

女性の声だった。

坂井さんの妻だ。

 

「あの、井上と申します」

「以前、ご主人のリハビリを担当していた理学療法士です」

 

インターホンの向こうで、沈黙が流れた。

 

そして。

 

「井上さん、ですか」

 

妻の声は、少し驚いたようだった。

 

「はい」

「少し、お話しさせていただけないでしょうか」

 

また、沈黙が流れた。

 

私は、断られるかもしれないと思った。

 

でも。

 

「分かりました。どうぞ」

 

玄関のドアが開いた。

 

出迎えたのは、坂井さんの妻だった。

 

八年前よりも、少し老けて見えた。

でも、穏やかな表情をしていた。

 

「いらっしゃい。どうぞ上がってください」

「ありがとうございます」

 

私は靴を脱ぎ、家に上がった。

 

リビングに案内された。

 

ソファに座ると、妻がお茶を出してくれた。

 

「久しぶりですね、井上さん」

「はい、ご無沙汰しております」

 

私は、深く頭を下げた。

 

妻は、小さく笑った。

 

「顔を上げてください」

 

私は、顔を上げた。

 

妻は、穏やかに私を見ていた。

 

「井上さん、今日はどうしたんですか?」

 

その問いに、私は少し迷った。

 

でも、正直に答えることにした。

 

「実は、ご主人のことで、ずっと後悔していたことがあって」

「それを、お伝えしたくて」

 

妻は、じっと私を見た。

 

「後悔していたこと?」

「はい」

 

私は、深呼吸をした。

 

「ご主人が亡くなる前に、私に頼まれたことがあったんです」

「家族に、本当の気持ちを伝えてほしいと」

 

その言葉に、妻の表情が変わった。

 

「でも、私は何もしませんでした」

「ご主人自身が伝えるべきだと、そう言って断りました」

 

私は、顔を伏せた。

 

「結果、ご主人は苦しみながら亡くなりました」

「最期に、私を裏切り者と呼びました」

 

私の声は、震えていた。

 

「私は、ご主人を裏切りました」

「本当に、申し訳ありませんでした」

 

私は、深く頭を下げた。

 

涙が、溢れてきた。

 

しばらく、沈黙が流れた。

 

そして、妻が口を開いた。

 

「井上さん、顔を上げてください」

 

私は、顔を上げた。

 

妻は、涙を流していた。

 

「井上さん、ありがとうございます」

「謝りに来てくださって」

 

その言葉に、私は驚いた。

 

「でも、私は」

「いいんです」

 

妻は、首を横に振った。

 

「実は、私も知っていたんです」

「夫が、延命治療を続けたくないと思っていたこと」

 

その言葉に、私は息を呑んだ。

 

「知って、いたんですか?」

「ええ」

 

妻は、窓の外を見た。

 

「夫の目を見れば、分かりました」

「苦しんでいること」

「もう限界だということ」

 

妻の声は、静かだった。

 

「でも、私は見て見ぬふりをしました」

「夫が諦めることを、認めたくなくて」

「まだ希望があると、信じたくて」

 

妻は、涙を拭いた。

 

「だから、新しい治療を選択しました」

「夫が苦しむと分かっていても」

 

妻は、私を見た。

 

「井上さん、裏切り者は私なんです」

「夫を裏切ったのは、私なんです」

 

その言葉に、私は何も言えなかった。

 

「夫は、最期まで私たちのことを思ってくれていました」

「だから、諦めたいとは言えなかった」

「私たちに、心配をかけたくなくて」

 

妻は、顔を覆った。

 

「でも、私は夫の気持ちを無視しました」

「自分の希望を優先しました」

 

妻は、大声で泣き始めた。

 

私は、妻の隣に座った。

 

そして、妻の手を握った。

 

「いいえ、違います」

 

私は、そう言った。

 

「あなたは、裏切っていません」

「ご主人を愛していたから、諦めたくなかったんです」

「それは、裏切りではありません」

 

妻は、私を見た。

 

「本当に、そう思いますか?」

「はい」

 

私は、頷いた。

 

「でも、私は違います」

「私は、ご主人の頼みを断りました」

「向き合うことから、逃げました」

「それは、裏切りです」

 

私は、涙を流した。

 

「本当に、申し訳ありませんでした」

 

妻は、私の手を握り返した。

 

「井上さん、もういいんです」

「あなたが、こうして謝りに来てくれた」

「それだけで、十分です」

 

妻は、小さく笑った。

 

「夫も、許してくれると思います」

 

その言葉に、私は涙が止まらなくなった。

 

妻は、私を抱きしめてくれた。

 

「ありがとうございます、井上さん」

「夫のことを、覚えていてくれて」

 

その言葉が、胸に響いた。

 

私は、妻の胸で泣き続けた。

 

しばらくして、私は落ち着いた。

 

妻は、お茶を淹れ直してくれた。

 

「井上さん、今は何をされているんですか?」

 

妻が尋ねた。

 

「訪問リハビリの仕事をしています」

「そうですか」

 

妻は、小さく笑った。

 

「夫も、きっと喜んでいると思います」

「井上さんが、患者さんのために働いていること」

 

その言葉に、私は少し照れくさくなった。

 

「いえ、私はまだまだです」

「でも、最近少し変わりました」

 

私は、妻に話した。

 

宮下さんのこと。

田中さんのこと。

吉岡さんのこと。

 

そして、みんなの秘密を一緒に抱えていること。

 

妻は、じっと聞いていた。

 

「井上さん、あなたは変わりましたね」

 

妻は、穏やかに笑った。

 

「夫が亡くなった時、あなたは葬儀にも来ませんでした」

「私は、少し寂しかったんです」

 

その言葉に、私は申し訳なくなった。

 

「でも、今日来てくれた」

「そして、ちゃんと謝ってくれた」

「それだけで、あなたは変わったんだと思います」

 

妻は、私の手を握った。

 

「夫も、あなたの成長を見ていると思います」

 

その言葉に、私は胸が熱くなった。

 

私は、坂井さんの妻と、長い時間話をした。

 

坂井さんのこと。

子どもたちのこと。

これからのこと。

 

そして、私は坂井家を後にした。

 

車に乗り込み、エンジンをかけた。

 

胸の奥にあった重いものが、少しだけ軽くなった気がした。

 

坂井さんの妻に、ちゃんと謝ることができた。

 

それだけで、何かが変わった気がした。

 

私は、アクセルを踏んだ。

 

家に帰る。

 

その夜、私は久しぶりにぐっすり眠れた。

 

坂井さんの顔も、浮かんでこなかった。

 

あなたは、裏切り者だ。

 

その言葉も、聞こえなかった。

 

代わりに、坂井さんの妻の言葉が聞こえた。

 

夫も、許してくれると思います。

 

その言葉が、私を救ってくれた。

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