決定的な出来事
第20話 八年前の真実
月曜日の朝、私は目を覚ました。
今日は、宮下さんの訪問日だ。
家族に本当のことを話してから、一週間が経った。
宮下さんは、今どんな気持ちでいるのだろう。
私は、身支度を整え、車に乗り込んだ。
宮下さんの家に向かう途中、私は考えていた。
最近、私は変わり始めている。
秘密を抱え続けることをやめた。
逃げることをやめた。
宮下さんに話した。
田中さんに話した。
そして、坂井さんの墓を訪れた。
でも、まだ足りない気がした。
坂井さんに、ちゃんと向き合えていない。
あの日、何があったのか。
坂井さんは、何を思っていたのか。
私は、もう一度思い出さなければならない。
午前十時。
宮下さんの家の前に到着する。
インターホンを押すと、妻が出迎えてくれた。
「いらっしゃい。今日もお願いします」
「よろしくお願いします」
私は靴を脱ぎ、リビングに向かった。
宮下さんは、車椅子に座って窓の外を見ていた。
「おはようございます、浩二さん」
私が声をかけると、宮下さんはこちらを向いた。
「ああ、井上さん。おはようございます」
宮下さんの顔には、穏やかな笑顔があった。
「今日の調子はいかがですか?」
「ええ、いいですよ」
宮下さんは、小さく笑った。
「家族に話してから、毎日が穏やかなんです」
「隠す必要がないから、気持ちが楽で」
宮下さんは、窓の外を見た。
「娘も、毎日話しかけてくれます」
「受験のこと、将来のこと」
「いろんなことを、話してくれます」
宮下さんの目には、涙が浮かんでいた。
「嬉しいんです」
「娘と、こんなに話せることが」
その言葉に、私は胸が温かくなった。
宮下さんは、勇気を出して家族に話した。
その結果、家族との絆が深まった。
それは、とても尊いことだった。
私は血圧計を取り出し、宮下さんの血圧を測った。
上が百二十、下が七十五。
とても安定している。
「血圧も、とてもいいですね」
「そうですか。よかった」
私は、宮下さんの関節可動域を確認し始めた。
今日の宮下さんは、身体が柔らかい。
すべての関節が、スムーズに動く。
リハビリを続けながら、宮下さんが話し始めた。
「井上さん、実は、娘が言ったんです」
「娘さんが?」
「ええ」
宮下さんは、私を見た。
「お父さんが生きている間に、たくさん話をしたいって」
「建築のこと、仕事のこと、人生のこと」
宮下さんの声は、嬉しそうだった。
「だから、毎晩話をしているんです」
「私が建築士になった理由」
「どんな建物を設計してきたか」
「仕事で大切にしてきたこと」
宮下さんは、窓の外を見た。
「娘は、真剣に聞いてくれます」
「そして、質問もしてくれます」
「お父さんは、どう思う?って」
宮下さんは、涙を流した。
「私、幸せなんです」
「残された時間を、家族と一緒に過ごせることが」
その言葉に、私は何も言えなかった。
ただ、宮下さんの手を握った。
宮下さんは、秘密を話すことで、家族との時間を取り戻した。
それは、素晴らしいことだった。
でも、同時に、私は思った。
坂井さんも、こうなれたのではないか。
もし、私が坂井さんと一緒に家族に話していたら。
坂井さんも、家族との時間を取り戻せたのではないか。
その後悔が、胸に重くのしかかった。
リハビリを終え、私は帰る準備を始めた。
「また、木曜日に来ますね」
「はい。お願いします」
宮下さんは、穏やかに笑った。
私は、宮下さんの家を出た。
車に乗り込み、エンジンをかけた。
でも、すぐには発進しなかった。
ハンドルに手を置いたまま、深く息を吐いた。
坂井さんのことを、もう一度思い出さなければならない。
あの日、何があったのか。
坂井さんは、何を思っていたのか。
私は、目を閉じた。
そして、記憶の中に潜っていった。
八年前。
坂井さんが、私に助けを求めた日から、数週間が経った。
私は、坂井さんの頼みを断った。
「それは、坂井さん自身が伝えるべきだと思います」
そう言って、私は逃げた。
その後、坂井さんの様子が変わった。
リハビリ中も、黙り込むことが多くなった。
いつもの笑顔が、消えていた。
私は、それを見て見ぬふりをした。
坂井さんと向き合うことから、逃げた。
そして、ある日。
坂井さんの容態が急変した。
がんが、急速に進行していた。
医者は、家族に新しい治療法を提案した。
高額な薬を使い、延命を図る治療だった。
家族は、その治療を選択した。
坂井さんは、何も言わなかった。
ただ、黙って受け入れていた。
でも、その目には、深い絶望が滲んでいた。
治療が始まった。
副作用は、激しかった。
坂井さんは、身体中が痛み、吐き気が止まらなかった。
食事もできず、眠ることもできなかった。
私は、リハビリのために病室を訪れた。
でも、坂井さんはリハビリどころではなかった。
ベッドに横たわり、苦しんでいた。
「井上さん」
坂井さんが、小さな声で私を呼んだ。
「はい」
「今日は、リハビリはいいです」
「でも」
「お願いします」
坂井さんの声は、弱々しかった。
私は、カバンを置いた。
「分かりました」
でも、私はすぐに帰ろうとした。
坂井さんと向き合うのが、怖かったからだ。
「井上さん」
坂井さんが、また私を呼んだ。
「はい」
「少し、話せますか?」
その言葉に、私は動きを止めた。
坂井さんは、私を見た。
その目には、深い悲しみが滲んでいた。
「井上さん、私はもう限界です」
坂井さんの声は、震えていた。
「この治療を、続けたくない」
「苦しいんです」
「毎日、死にたいと思っているんです」
その言葉に、私は息を呑んだ。
「でも、家族に言えない」
「家族は、まだ希望を持っている」
「私が諦めたら、家族はどう思うか」
坂井さんは、涙を流した。
「井上さん、あなたに頼んだこと、覚えていますか?」
「はい」
「家族に、伝えてほしいと」
「私の気持ちを」
坂井さんは、私を見た。
「でも、あなたは何もしてくれなかった」
その言葉が、胸に刺さった。
「あなたは、倫理がどうとか言った」
「でも、本当は違うでしょう」
坂井さんの声は、鋭かった。
「あなたは、ただ逃げただけだ」
「私と向き合うことから」
「責任を負うことから」
その言葉が、真実だった。
私は、何も言えなかった。
「井上さん、あなたは裏切り者だ」
その言葉が、私の心に深く刻まれた。
「私は、あなたを信頼していた」
「でも、あなたは何もしてくれなかった」
坂井さんは、目を閉じた。
「もう、いいです」
「帰ってください」
私は、病室を出た。
廊下を歩きながら、涙が溢れてきた。
坂井さんの言葉が、頭の中で繰り返される。
あなたは、裏切り者だ。
その言葉が、今でも消えない。
そして、数日後。
坂井さんは、亡くなった。
苦しみながら、家族に囲まれて。
でも、坂井さんの本当の気持ちは、誰にも伝わらなかった。
私は、目を開けた。
車の中で、涙を流していた。
あの日、私は間違っていた。
坂井さん自身が決めることだ、と言った。
でも、坂井さんには、その力がなかった。
だから、私に頼んだ。
私は、その頼みを受け止めるべきだった。
坂井さんと一緒に、家族に伝えるべきだった。
でも、私は逃げた。
そして、坂井さんは一人で苦しみながら死んだ。
私は、ハンドルを強く握った。
もう、同じ過ちは繰り返さない。
宮下さんには、一緒にいた。
田中さんにも、吉岡さんにも、一緒にいる。
それが、私にできる贖罪だった。
私は、涙を拭いた。
そして、エンジンをかけた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます