第19話 繰り返される痛み
金曜日の午後、私は再び吉岡さんの家を訪れた。
インターホンを押すと、ヘルパーが出迎えてくれた。
「お疲れ様です」
「お疲れ様です。今日の様子はどうですか?」
「今日は、朝から落ち着かなくて」
ヘルパーは、困ったような顔をした。
「また、夫さんの名前を呼び続けているんです」
「そして、ベランダに何度も行こうとして」
その言葉に、私は少し緊張した。
ベランダ。
吉岡さんの夫が、亡くなった場所だ。
私はリビングに入った。
吉岡さんは、ソファに座っていた。
でも、落ち着きがなく、時折立ち上がろうとしている。
「こんにちは、吉岡さん」
私が声をかけると、吉岡さんはこちらを向いた。
「あら、健三さん」
また、夫の名前で呼ばれた。
「井上です。リハビリの」
「……井上さん?」
吉岡さんは、少し首を傾げた。
「ええ、そうよね」
「井上さんね」
吉岡さんは、小さく笑った。
でも、すぐに不安そうな顔になった。
「井上さん、健三を見なかった?」
「健三さんを?」
「ええ」
吉岡さんは、立ち上がろうとした。
「健三が、ベランダにいるの」
「でも、返事をしてくれないの」
吉岡さんの声は、震えていた。
「呼んでも、振り向いてくれないの」
私は、吉岡さんを座らせた。
「大丈夫ですよ、吉岡さん」
「でも、健三が」
「ベランダには、誰もいませんよ」
私は、優しく言った。
でも、吉岡さんは首を横に振った。
「いいえ、いるの」
「健三が、そこにいるの」
吉岡さんは、ベランダを指差した。
私は、ベランダを見た。
当然、誰もいない。
でも、吉岡さんの中では、夫がそこにいる。
「吉岡さん」
「はい」
「今日は、リハビリをしましょうね」
「でも、健三が」
「健三さんは、大丈夫です」
私は、吉岡さんの手を握った。
「今は、リハビリをしましょう」
吉岡さんは、少し迷うような顔をした。
でも、最終的には頷いた。
「分かったわ」
私は、吉岡さんの足を支え、ゆっくりと動かしていった。
リハビリを続けながら、私は吉岡さんを観察していた。
吉岡さんは、何度もベランダを見ている。
夫がそこにいると、信じているようだった。
「吉岡さん、健三さんのこと、よく覚えているんですね」
私が言うと、吉岡さんは私を見た。
「ええ、健三のことは忘れないわ」
吉岡さんは、小さく笑った。
「健三は、私の大切な人だから」
「でも、最近は私のことで疲れているみたいで」
吉岡さんの声は、悲しそうだった。
「私の世話が、大変なのかもしれない」
「だから、ベランダで一人でいることが多いの」
吉岡さんは、ベランダを見た。
「あの日も、健三はベランダにいた」
「私が呼んだけど、振り向かなかった」
「そして」
吉岡さんは、言葉を濁した。
「落ちたの」
その言葉が、また出た。
私は、黙って聞いていた。
「私、健三を止められなかった」
「呼んだけど、振り向いてくれなかった」
吉岡さんは、涙を流した。
「私のせいなの」
「私が病気にならなければ」
「健三は、あんなことしなかった」
吉岡さんは、顔を覆った。
私は、吉岡さんを抱きしめた。
「吉岡さん、あなたのせいじゃありません」
私は、そう言った。
でも、吉岡さんは泣き続けた。
「私のせいよ」
「私が」
吉岡さんの声は、かすれていた。
しばらくして、吉岡さんは泣き止んだ。
そして、顔を上げた。
「あら、あなた誰だっけ?」
吉岡さんは、不思議そうに私を見た。
また、記憶が途切れた。
私は、小さくため息をついた。
「井上です」
「そう」
吉岡さんは、穏やかに笑った。
でも、すぐにベランダを見た。
「あら、健三がベランダにいるわ」
吉岡さんは、立ち上がろうとした。
私は、吉岡さんを座らせた。
「ベランダには、誰もいませんよ」
「いいえ、いるわ」
吉岡さんは、頑なだった。
これが、認知症の現実だった。
夫の死を忘れる。
でも、また思い出す。
そして、また悲しむ。
それを、何度も繰り返す。
私は、リハビリを続けた。
でも、吉岡さんは何度もベランダを見ていた。
リハビリを終え、吉岡さんをソファに座らせた。
「お疲れ様でした」
「ありがとう」
吉岡さんは、私の顔を見た。
「あなた、井上さんね」
今日は、私の名前を覚えていてくれた。
「はい」
「井上さん、お願いがあるの」
吉岡さんが、私の手を握った。
「何でしょうか?」
「健三のこと、見ていてくれない?」
その言葉に、私は少し戸惑った。
「健三さんを?」
「ええ」
吉岡さんは、ベランダを見た。
「健三は、ベランダにいるとき、一人なの」
「私が行こうとしても、振り向いてくれない」
「だから、誰かに見ていてほしいの」
吉岡さんの声は、切実だった。
「一人にしないで」
「お願い」
その言葉に、私は胸が詰まった。
吉岡さんは、夫を失った。
でも、認知症により、その事実を受け入れられない。
そして、今も夫がベランダにいると信じている。
それは、あまりにも残酷だった。
「分かりました」
私は、そう答えた。
「健三さんのこと、見ています」
吉岡さんは、少し安心したような顔をした。
「ありがとう」
吉岡さんは、小さく笑った。
私はカバンを片付け、帰る準備を始めた。
ヘルパーに挨拶をして、家を出る前に、私はベランダを見た。
当然、誰もいない。
でも、吉岡さんの中では、夫がそこにいる。
一人で、寂しそうに。
私は、深くため息をついた。
そして、家を出た。
車に乗り込み、エンジンをかけた。
吉岡さんの言葉が、頭の中で繰り返される。
健三のこと、見ていてくれない?
一人にしないで。
その言葉が、胸に重くのしかかっていた。
吉岡さんは、夫を失った悲しみを、何度も繰り返している。
忘れては、思い出し。
思い出しては、また悲しむ。
それは、終わりのない苦しみだった。
でも、同時に、忘れることで一時的に救われている。
記憶が途切れることで、苦しみも消える。
それは、残酷なのか。
優しいのか。
私には、分からなかった。
でも、一つだけ分かることがあった。
吉岡さんには、誰かが必要だった。
夫がいなくなった今、一人で抱えるには重すぎる。
だから、私が一緒にいる。
それが、私にできることだった。
私は、アクセルを踏んだ。
家に帰る。
その夜、私はベッドに横になった。
でも、眠れなかった。
吉岡さんの顔が、浮かんできた。
健三のこと、見ていてくれない?
その言葉が、耳に残っていた。
私は、目を閉じた。
吉岡さんの夫は、本当に事故だったのだろうか。
それとも、自ら命を絶ったのだろうか。
真実は、分からない。
でも、吉岡さんはその記憶を抱えている。
そして、それを忘れることで、救われている。
私は、その秘密を一緒に抱えている。
田中さんの秘密も。
宮下さんの秘密も。
吉岡さんの秘密も。
みんなの秘密を、一緒に抱えている。
それは、重いのか。
いや、違う。
それは、信頼の証だ。
みんなが、私を信頼してくれた証だ。
私は、その信頼に応えたい。
一緒にいたい。
それが、私にできることだった。
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