忘れることの残酷さ
第18話 記憶の中の夫
火曜日の午前、私は田中さんの家を訪れた。
キーボックスに手を伸ばし、暗証番号を入力する。
2784。
蓋が開き、鍵を取り出す。
玄関を開けると、いつもと同じ畳の匂いがした。
「おはようございます」
声をかけると、奥から返事が返ってくる。
「ああ、井上さん。今日もありがとう」
私は靴を脱ぎ、廊下を歩いて居間に入った。
田中さんは、座椅子に座っていた。
今日は、少し元気そうに見えた。
「田中さん、今日は調子がよさそうですね」
「ええ、昨日よく眠れたの」
田中さんは、小さく笑った。
私は血圧計を取り出し、田中さんの血圧を測った。
上が百三十、下が八十。
安定している。
「血圧も、いいですね」
「そう。ありがとう」
私は、リハビリを始めた。
膝の曲げ伸ばし、立ち上がりの練習。
田中さんは、いつもと同じように、静かに私の手に従っている。
リハビリを続けながら、私は田中さんに話しかけた。
「田中さん、実は、報告したいことがあるんです」
田中さんは、少し驚いたような顔をした。
「報告?」
「はい」
私は、田中さんを見た。
「私、誰かに話しました」
「自分の秘密を」
その言葉に、田中さんの顔が明るくなった。
「まあ、本当に?」
「はい」
私は、頷いた。
「宮下さんという患者さんに、話しました」
「八年前に、患者さんを裏切ったことを」
田中さんは、私の手を握った。
「井上さん、よかったわね」
「話せて、よかった」
田中さんの目には、涙が浮かんでいた。
「一人で抱えるのは、辛いものね」
「私が、一番よく分かるわ」
田中さんは、窓の外を見た。
「私も、七十年以上抱えてきたから」
その言葉に、私は胸が痛んだ。
七十年。
それは、あまりにも長い時間だった。
「でも、井上さんに話せて、少し楽になったの」
田中さんは、私を見た。
「井上さんが、一緒に抱えてくれているから」
その言葉が、胸に響いた。
私は、田中さんの秘密を一緒に抱えている。
戦争中に隣人を密告したこと。
それは、とても重い秘密だ。
でも、一緒に抱えることで、田中さんは少し楽になった。
それが、私にできることだった。
リハビリを終え、私は帰る準備を始めた。
「また、金曜日に来ますね」
「ええ。待ってるわ」
田中さんは、穏やかに笑った。
玄関を出て、鍵をキーボックスに戻す。
蓋を閉める。
車に乗り込み、エンジンをかけた。
田中さんとの時間は、いつも穏やかだった。
でも、同時に、深い悲しみも感じる。
田中さんは、もう八十六歳だ。
いつか、別れの日が来る。
その時、田中さんの秘密は、私だけが知ることになる。
それは、重荷なのだろうか。
いや、違う。
それは、信頼の証だ。
田中さんが、私を信頼してくれた証だ。
私は、その信頼に応えたい。
私は、アクセルを踏んだ。
次の訪問先に向かう。
午後、私は吉岡さんの家を訪れた。
インターホンを押すと、ヘルパーが出迎えてくれた。
「お疲れ様です」
「お疲れ様です。今日の様子はどうですか?」
「今日は、少し混乱していますね」
ヘルパーは、少し困ったような顔をした。
「朝から、ずっと夫さんの名前を呼んでいて」
「そうですか」
私はリビングに入った。
吉岡さんは、ソファに座って窓の外を見ていた。
「こんにちは、吉岡さん」
私が声をかけると、吉岡さんはゆっくりとこちらを向いた。
「あら、健三さん」
また、夫の名前で呼ばれた。
「井上です。リハビリの」
「……井上さん?」
吉岡さんは、少し首を傾げた。
「ごめんなさい。よく分からなくて」
「大丈夫ですよ」
私は、吉岡さんの隣に座った。
「今日は、足のリハビリをしましょうね」
「ええ」
私は、吉岡さんの足を支え、ゆっくりと動かしていった。
リハビリを続けながら、私は吉岡さんを観察していた。
吉岡さんは、今日も窓の外を見ている。
何かを探しているようだった。
「吉岡さん、誰を待っているんですか?」
私が尋ねると、吉岡さんは私を見た。
「健三が、帰ってこないの」
吉岡さんの声は、不安そうだった。
「健三は、どこに行ったのかしら」
吉岡さんは、涙を流した。
「もう、ずっと帰ってこないの」
その言葉に、私は胸が痛んだ。
吉岡さんの夫は、五年前に亡くなっている。
でも、吉岡さんはそれを忘れている。
そして、今も夫の帰りを待っている。
「大丈夫ですよ、吉岡さん」
私は、吉岡さんの手を握った。
「健三さんは、きっと帰ってきます」
私は、嘘をついた。
でも、それが優しさだと思った。
吉岡さんは、少し安心したような顔をした。
「そうよね」
「健三は、ちゃんと帰ってくるわよね」
吉岡さんは、小さく笑った。
リハビリを続ける。
でも、吉岡さんは何度も窓の外を見ていた。
夫の帰りを、待ち続けている。
それは、あまりにも切なかった。
リハビリを終え、吉岡さんをソファに座らせた。
「お疲れ様でした」
「ありがとう」
吉岡さんは、穏やかに笑った。
でも、すぐに不安そうな顔になった。
「健三、まだ帰ってこないわ」
私は、何も言わなかった。
ただ、吉岡さんの隣に座っていた。
しばらくして、吉岡さんが話し始めた。
「健三はね、優しい人だったの」
過去形で話している。
私は、吉岡さんを見た。
「いつも、私のことを気にかけてくれて」
「でも、私が病気になってから、疲れていたわ」
吉岡さんの声は、静かだった。
「私の世話が、大変だったと思う」
「健三は、何も言わなかったけど」
「でも、顔を見れば分かったわ」
吉岡さんは、窓の外を見た。
「あの日、健三は笑っていた」
「でも、その笑顔は、とても悲しそうだった」
その言葉に、私は息を呑んだ。
前にも、同じことを言っていた。
「吉岡さん、その日のこと、覚えているんですか?」
私が尋ねると、吉岡さんは私を見た。
「あの日?」
「ええ。ご主人が亡くなった日」
吉岡さんは、少し考えるような顔をした。
「健三は、ベランダにいたの」
「私が、健三を呼んだ」
「でも、健三は振り向かなかった」
吉岡さんの声は、震えていた。
「そして、健三は」
吉岡さんは、言葉を濁した。
「落ちたの」
その言葉が、リビングに落ちた。
私は、何も言えなかった。
「でも、転んだのか、それとも」
吉岡さんは、顔を覆った。
「分からないの」
「本当に転んだのか」
「それとも、自分で」
吉岡さんは、泣き始めた。
「私のせいなの」
「私が病気にならなければ」
「健三は、あんなことしなかった」
吉岡さんは、大声で泣いた。
私は、吉岡さんを抱きしめた。
「吉岡さん、あなたのせいじゃありません」
私は、そう言った。
でも、吉岡さんは首を横に振った。
「私のせいよ」
「私が、健三を疲れさせた」
吉岡さんの声は、かすれていた。
「でも、もう健三はいないの」
「私は、一人なの」
吉岡さんは、私の胸で泣き続けた。
しばらくして、吉岡さんは泣き止んだ。
そして、顔を上げた。
「あら、あなた誰だっけ?」
吉岡さんは、不思議そうに私を見た。
また、記憶が途切れた。
さっきまでの涙も、苦しみも、すべて忘れている。
それが、認知症だった。
「井上です。リハビリの」
「そう。ありがとう」
吉岡さんは、穏やかに笑った。
私はカバンを片付け、帰る準備を始めた。
「では、また金曜日に来ますね」
「ええ。お願いね」
吉岡さんは、穏やかに笑った。
私は、ヘルパーに挨拶をして、家を出た。
車に乗り込み、エンジンをかけた。
吉岡さんの言葉が、頭の中で繰り返される。
健三は、ベランダから落ちた。
でも、転んだのか、それとも自分で。
吉岡さんの夫は、妻の介護に疲れていた。
そして、ベランダから。
事故なのか。
自死なのか。
真実は、分からない。
でも、吉岡さんはその記憶を抱えている。
そして、忘れることで救われている。
一瞬の苦しみを感じても、すぐに忘れる。
それは、残酷なのか。
それとも、優しいのか。
私には、分からなかった。
でも、一つだけ分かることがあった。
吉岡さんは、秘密を抱えている。
夫の死の真相を。
でも、それを忘れることができる。
田中さんは、秘密を抱えている。
でも、忘れることはできない。
宮下さんは、秘密を抱えていた。
そして、それを家族に話した。
みんな、秘密との向き合い方が違う。
でも、それでいいのかもしれない。
人それぞれ、秘密との向き合い方がある。
忘れることも。
抱え続けることも。
話すことも。
すべて、その人の選択だ。
私は、アクセルを踏んだ。
家に帰る。
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