第17話 変わり始めた何か

宮下さんの家を出て、私は車に乗り込んだ。

 

エンジンをかけたが、すぐには発進しなかった。

 

ハンドルに手を置いたまま、深く息を吐いた。

 

宮下さんは、家族に話すことができた。

本当のことを。

 

それは、とても勇気のいることだった。

 

娘は泣いていた。

妻も泣いていた。

 

でも、それでよかったのだ。

 

隠し続けるより、向き合う方がいい。

 

私は、それを目の当たりにした。

 

坂井さんも、こうすればよかったのかもしれない。

 

でも、坂井さんにはその力がなかった。

 

だから、私に頼んだ。

 

私は、その頼みを受け止めるべきだった。

 

一緒に、家族に伝えるべきだった。

 

でも、私は逃げた。

 

その結果、坂井さんは一人で苦しみながら死んだ。

 

私は、アクセルを踏んだ。

 

家に帰る。

 

車を走らせながら、私は考えていた。

 

もし、あの時に戻れるなら。

 

坂井さんに、何と言うだろう。

 

「一緒に、家族に話しましょう」

 

そう言いたい。

 

でも、時間は戻らない。

 

坂井さんは、もうこの世にいない。

 

私にできるのは、これからだ。

 

宮下さんと一緒にいたように。

田中さんの秘密を一緒に抱えているように。

 

これから出会う人たちと、ちゃんと向き合う。

 

それが、私にできることだった。

 

家に到着し、部屋に入った。

 

ソファに座り、天井を見上げた。

 

今日、私は大きな一歩を踏み出した。

 

宮下さんが家族に話す場に、立ち会った。

 

それは、坂井さんにできなかったことだった。

 

でも、今日できた。

 

それは、私が変わり始めているからだ。

 

もう、逃げない。

 

その夜、私はぐっすり眠れた。

 

久しぶりに、悪夢を見なかった。

 

坂井さんの顔も、浮かんでこなかった。

 

翌朝、私は六時に目を覚ました。

 

いつもと同じ時間だ。

 

顔を洗い、着替え、簡単な朝食を取る。

 

今日は月曜日。

宮下さんの訪問日だ。

 

昨日、家族に話をした後、宮下さんはどうしているだろう。

 

私は車に乗り込み、宮下さんの家に向かった。

 

午前十時。

宮下さんの家の前に到着する。

 

インターホンを押すと、妻が出迎えてくれた。

 

今日の妻は、昨日とは違う表情をしていた。

少し疲れているようだったが、どこか穏やかだった。

 

「いらっしゃい。昨日は、ありがとうございました」

「いえ、こちらこそ」

 

私は靴を脱ぎ、リビングに向かった。

 

宮下さんは、車椅子に座って窓の外を見ていた。

 

「おはようございます、浩二さん」

 

私が声をかけると、宮下さんはこちらを向いた。

 

その顔には、昨日の緊張はなかった。

代わりに、穏やかな笑顔があった。

 

「ああ、井上さん。おはようございます」

 

宮下さんの声は、いつもより明るかった。

 

「昨日は、ありがとうございました」

「いえ」

 

私は、宮下さんの隣に座った。

 

「浩二さん、昨日の後、大丈夫でしたか?」

「ええ、大丈夫です」

 

宮下さんは、小さく笑った。

 

「娘は、一晩中泣いていました」

「妻も、泣いていました」

「私も、泣きました」

 

宮下さんは、窓の外を見た。

 

「でも、話してよかったと思います」

「もう、隠す必要がない」

「それだけで、気持ちが楽になりました」

 

宮下さんは、私を見た。

 

「井上さん、本当にありがとうございました」

「あなたがいてくれたから、話せました」

 

その言葉に、私は首を横に振った。

 

「いえ、浩二さんが決めたことです」

「私は、ただ一緒にいただけです」

 

宮下さんは、小さく笑った。

 

「それが、大事なんです」

「一緒にいてくれること」

 

その言葉が、胸に響いた。

 

私は血圧計を取り出し、宮下さんの血圧を測った。

上が百二十五、下が八十。

昨日よりも、だいぶ落ち着いている。

 

「血圧も、安定してきましたね」

「そうですか。よかった」

 

私は、宮下さんの関節可動域を確認し始めた。

 

今日の宮下さんは、身体が柔らかい。

肩も、肘も、スムーズに動く。

 

「浩二さん、身体の力が抜けていますね」

「ええ、気持ちが楽になったからでしょうか」

 

宮下さんは、小さく笑った。

 

リハビリを続ける。

 

今日の宮下さんは、とても積極的だった。

立ち上がりの練習も、しっかりとこなしている。

 

「浩二さん、今日は調子がいいですね」

「ええ、不思議ですね」

 

宮下さんは、歩きながら言った。

 

「昨日、あんなに辛い話をしたのに」

「今日は、とても気持ちが軽いんです」

 

宮下さんは、窓の外を見た。

 

「秘密を抱えることは、こんなに重かったんですね」

「話すことで、こんなに楽になるなんて」

 

その言葉に、私は頷いた。

 

「そうですね」

「秘密は、一人で抱えるには重すぎます」

 

宮下さんは、私を見た。

 

「井上さんも、そう思いますか?」

「はい」

 

私は、頷いた。

 

「私も、最近そう思うようになりました」

 

宮下さんは、小さく笑った。

 

「井上さんも、誰かに話したんですか?」

「あなたの秘密を」

「はい」

 

私は、頷いた。

 

「浩二さんに、話しました」

「そして、田中さんにも話しました」

 

宮下さんは、少し驚いたような顔をした。

 

「そうでしたか」

「それは、よかった」

 

宮下さんは、私の肩を叩いた。

 

「井上さん、あなたも変わりましたね」

「変わった、ですか?」

「ええ」

 

宮下さんは、私の顔を見た。

 

「最初に会った時、あなたは逃げている人の顔をしていました」

「でも、今は違う」

「ちゃんと、向き合っている顔をしています」

 

その言葉に、私は少し照れくさくなった。

 

「そうでしょうか」

「ええ、間違いありません」

 

宮下さんは、穏やかに笑った。

 

リハビリを終え、宮下さんを車椅子に座らせた。

 

「お疲れ様でした」

「ありがとうございます」

 

宮下さんは、水を飲んだ。

 

私はカバンを片付け始めた。

 

その時、宮下さんが話し始めた。

 

「井上さん、実は、娘が言ったんです」

「娘さんが?」

「ええ」

 

宮下さんは、少し照れたような顔をした。

 

「お父さんと一緒に過ごせる時間を、大切にしたいって」

「受験が終わったら、もっと話をしたいって」

 

宮下さんの目から、涙が流れ落ちた。

 

「私、嬉しかったんです」

「娘が、そう言ってくれて」

 

宮下さんは、涙を拭いた。

 

「隠し続けていたら、この言葉は聞けなかった」

「話してよかったと、心から思います」

 

その言葉に、私は胸が熱くなった。

 

宮下さんは、勇気を出して家族に話した。

 

その結果、家族との絆が深まった。

 

それは、とても尊いことだった。

 

「また、木曜日に来ますね」

「はい。お願いします」

 

宮下さんは、穏やかに笑った。

 

玄関で靴を履いていると、宮下さんの妻が声をかけてきた。

 

「井上さん、昨日は本当にありがとうございました」

「いえ」

 

私は、首を横に振った。

 

「主人が、話せたのは井上さんのおかげです」

「そんなことは」

「いいえ、本当です」

 

妻は、私の手を握った。

 

「主人は、ずっと一人で抱えていました」

「でも、井上さんに会ってから、変わりました」

「話すことを、決めることができました」

 

妻は、涙を流した。

 

「ありがとうございます」

 

その言葉に、私は何も言えなかった。

 

ただ、頷いた。

 

私は、宮下さんの家を出た。

 

車に乗り込み、エンジンをかけた。

 

宮下さんは、変わった。

そして、私も変わった。

 

秘密を抱え続けることをやめた。

逃げることをやめた。

 

これから、どうなるか分からない。

 

でも、一つだけ分かることがあった。

 

私は、もう一人じゃない。

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