第16話 あの日の後悔

午後二時、私は家を出た。

 

宮下さんの家まで、車で三十分ほどかかる。

少し早めに到着して、気持ちを整えようと思った。

 

車を走らせながら、私は坂井さんのことを考えていた。

 

坂井さんが亡くなった後、私は病院を辞めた。

 

同僚たちは、驚いていた。

まだ若いのに、なぜ辞めるのかと。

 

でも、私は理由を言わなかった。

 

ただ、「別の道を探したい」とだけ伝えた。

 

本当は、坂井さんの顔が忘れられなかったからだ。

 

あなたは、裏切り者だ。

 

その言葉が、毎日頭の中で繰り返された。

 

病院にいると、坂井さんのことを思い出してしまう。

あの病室、あの廊下、あのリハビリ室。

 

すべてが、坂井さんの記憶と結びついていた。

 

だから、私は逃げた。

 

病院を辞め、訪問リハビリという仕事を選んだ。

 

訪問リハビリなら、深く関わらなくていい。

患者の家に入り、身体に触れ、そして出ていく。

 

それだけでいい。

 

秘密に触れなくていい。

責任を負わなくていい。

 

それが、私にとって楽だった。

 

でも、八年間逃げ続けて、私は気づいた。

 

逃げることは、楽じゃない。

 

むしろ、苦しい。

 

坂井さんの顔が、消えることはなかった。

裏切り者、という言葉が、消えることはなかった。

 

毎日、思い出す。

毎日、後悔する。

 

それを、八年間繰り返してきた。

 

でも、もう終わりにしたい。

 

宮下さんと一緒にいることで、私は変わりたい。

 

坂井さんにできなかったことを、宮下さんにはする。

 

それが、私にできる贖罪だった。

 

午後二時四十五分、私は宮下さんの家の前に到着した。

 

車を停め、深呼吸をした。

 

緊張で、手が少し震えていた。

 

でも、ここで逃げるわけにはいかない。

 

私は、車を降りた。

 

インターホンを押すと、すぐに応答があった。

 

「井上さんですね。どうぞ」

 

妻の声だった。

 

玄関のドアが開く。

出迎えたのは、宮下さんの妻だった。

 

いつもの穏やかな笑顔ではなく、少し緊張した表情をしていた。

 

「いらっしゃい。今日は、ありがとうございます」

「いえ、こちらこそ」

 

私は靴を脱ぎ、家に上がった。

 

リビングに向かうと、宮下さんが車椅子に座って待っていた。

 

そして、ソファには高校生くらいの女の子が座っていた。

宮下さんの娘だ。

 

「こんにちは」

 

私が挨拶すると、娘は少し戸惑ったような顔で会釈した。

 

「井上さん、来てくださったんですね」

 

宮下さんが、私を見た。

 

その目には、強い決意と、同時に深い不安が滲んでいた。

 

「はい、約束しましたから」

 

私は、宮下さんの隣に椅子を置いて座った。

 

妻も、ソファに座った。

 

リビングには、重い沈黙が流れた。

 

娘は、不思議そうに私を見ている。

 

「あの、お父さん、この人は?」

 

娘が、宮下さんに尋ねた。

 

「ああ、井上さんは、私のリハビリを担当してくれている理学療法士さんだ」

「そうなんだ」

 

娘は、少し安心したような顔をした。

 

「井上さんに、今日は立ち会ってもらいたくて」

 

宮下さんは、そう言った。

 

娘は、さらに不思議そうな顔をした。

 

「立ち会う?何に?」

 

宮下さんは、深呼吸をした。

 

そして、娘を見た。

 

「美咲」

 

宮下さんが、娘の名前を呼んだ。

 

「今日は、大事な話があるんだ」

 

その言葉に、娘の表情が変わった。

 

「大事な話?」

「ああ」

 

宮下さんは、一度目を閉じた。

そして、目を開けた。

 

「実は、私の病気のことなんだ」

 

その言葉に、リビングの空気が張り詰めた。

 

娘は、じっと宮下さんを見ている。

 

「病気って、お父さんの足のこと?」

「ああ、そうだ」

 

宮下さんは、頷いた。

 

「でも、それだけじゃないんだ」

 

宮下さんは、少し言葉を探すような顔をした。

 

そして、ゆっくりと話し始めた。

 

「美咲、私の病気は、進行性なんだ」

「進行性?」

「ああ」

 

宮下さんは、娘を見た。

 

「時間が経てば、必ず悪化する」

「そして、止めることはできない」

 

その言葉に、娘の顔が青ざめた。

 

「でも、お医者さんは、治療すれば大丈夫だって」

「それは、嘘なんだ」

 

宮下さんの声は、震えていた。

 

「私が、嘘をついていた」

「美咲に、心配をかけたくなくて」

 

娘は、何も言わなかった。

ただ、じっと宮下さんを見ていた。

 

「実は、医者からは、余命二年程度と言われているんだ」

 

その言葉が、リビングに落ちた。

 

娘の目から、涙が溢れてきた。

 

「余命、二年?」

 

娘の声は、震えていた。

 

「そんな、嘘でしょ?」

「嘘じゃないんだ」

 

宮下さんは、涙を流した。

 

「ごめん、美咲」

「ずっと、隠していた」

「受験が終わるまで、言わないつもりだった」

 

宮下さんは、顔を覆った。

 

「でも、美咲が建築を学びたいと言ってくれた」

「私と同じ道を選びたいと」

 

宮下さんは、娘を見た。

 

「それを聞いて、思ったんだ」

「美咲には、本当のことを知る権利がある」

「私が、どれだけ美咲のことを大切に思っているか」

「それを、ちゃんと伝える権利がある」

 

娘は、泣いていた。

 

妻も、涙を流していた。

 

私は、黙ってその場にいた。

 

宮下さんは、娘の手を握った。

 

「美咲、ごめん」

「こんな形で伝えることになって」

「でも、もう隠したくなかった」

 

娘は、宮下さんの手を握り返した。

 

「お父さん」

 

娘の声は、かすれていた。

 

「なんで、今まで言ってくれなかったの?」

「ごめん」

 

宮下さんは、ただ謝った。

 

娘は、宮下さんに抱きついた。

 

そして、大声で泣いた。

 

「お父さん、嫌だよ」

「お父さんがいなくなるなんて、嫌だよ」

 

娘の声が、リビングに響いた。

 

宮下さんは、娘を抱きしめた。

 

「ごめん、美咲」

「ごめん」

 

宮下さんも、泣いていた。

 

妻も、二人に駆け寄り、抱きしめた。

 

三人は、抱き合って泣いていた。

 

私は、その光景を見ながら、涙をこらえていた。

 

これが、向き合うということなのだ。

 

秘密を話すこと。

本当のことを伝えること。

 

それは、とても辛い。

 

でも、必要なことだ。

 

坂井さんも、こうすればよかったのかもしれない。

 

家族と一緒に、向き合えばよかったのかもしれない。

 

でも、坂井さんにはその力がなかった。

 

だから、私に頼んだ。

 

私は、その頼みを受け止めるべきだった。

 

坂井さんと一緒に、家族に伝えるべきだった。

 

でも、私は逃げた。

 

その結果、坂井さんは一人で苦しみながら死んだ。

 

私は、立ち上がった。

 

宮下さん一家の邪魔をするべきではない。

 

静かに、リビングを出ようとした。

 

その時、宮下さんが声をかけた。

 

「井上さん」

 

私は、振り返った。

 

「ありがとうございました」

 

宮下さんは、涙を流しながら笑っていた。

 

「あなたがいてくれたから、話せました」

 

その言葉に、私は頷いた。

 

「いえ、浩二さんが決めたことです」

「私は、ただ一緒にいただけです」

 

宮下さんは、小さく笑った。

 

「それが、大事なんです」

 

私は、宮下さん一家に深く頭を下げた。

 

そして、玄関に向かった。

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