病院の日々
第15話 あの日の選択
日曜日の朝、私は早く目を覚ました。
今日の午後三時、宮下さんの家に行く。
宮下さんが家族に本当のことを話す場に、立ち会う。
それを思うと、緊張で胸が詰まった。
私は、ベッドから起き上がり、窓の外を見た。
冬の朝は、まだ暗かった。
コーヒーを淹れ、ソファに座った。
宮下さんは、今頃どんな気持ちでいるのだろう。
家族に話す勇気を、持てているだろうか。
私は、コーヒーを飲みながら、考えていた。
そして、ふと、坂井さんのことを思い出した。
八年前。
私が、病院で働いていた頃。
坂井さんは、私に助けを求めた。
家族に、本当のことを伝えてほしいと。
でも、私は何もしなかった。
今、宮下さんは自分で家族に話そうとしている。
それは、とても勇気のいることだ。
坂井さんも、同じだった。
家族に話す勇気が、必要だった。
でも、坂井さんにはその勇気がなかった。
だから、私に頼んだ。
私は、その頼みを断った。
なぜなら、それは坂井さん自身が決めることだと思ったから。
でも、それは正しかったのだろうか。
私は、コーヒーカップを置いた。
八年前のことを、もう一度思い出してみよう。
あの日、私は何を考えていたのか。
なぜ、坂井さんの頼みを断ったのか。
私は、目を閉じた。
そして、記憶の中に潜っていった。
八年前。
私は、大学病院のリハビリテーション科に勤めていた。
当時二十八歳。
理学療法士として、毎日多くの患者を担当していた。
病院は忙しかった。
朝から晩まで、患者が途切れることはなかった。
リハビリ計画を立て、訓練を行い、記録を書く。
その繰り返しだった。
患者は、症例として扱われた。
脳卒中後の片麻痺、大腿骨頸部骨折、腰椎圧迫骨折。
一人一人の顔を覚える暇もなかった。
でも、坂井さんだけは違った。
坂井修一さん。
四十二歳。
末期がん。
坂井さんは、明るい人だった。
いつも笑顔で、冗談を言っていた。
妻と、二人の子どもがいた。
小学生の息子と娘。
坂井さんは、家族のために生きようとしていた。
リハビリも、真面目にこなしていた。
少しでも体力を維持しようと、必死だった。
私は、坂井さんを担当していた。
最初の頃は、順調だった。
坂井さんは回復を信じていた。
でも、ある日、坂井さんの様子が変わった。
リハビリ中、坂井さんは急に黙り込んだ。
いつもの笑顔が、消えていた。
「井上さん」
坂井さんが、私を呼んだ。
「はい」
「少し、話せますか?」
私は、時計を見た。
次の患者の予定が迫っていた。
「今日は、少し忙しいんです」
「そうですか」
坂井さんは、小さく笑った。
「じゃあ、また今度でいいです」
私は、その時何も感じなかった。
ただ、次の患者のことを考えていた。
でも、数日後、坂井さんは再び私を呼び止めた。
「井上さん、今日は時間がありますか?」
その日は、少し時間があった。
「はい、大丈夫です」
「ありがとうございます」
坂井さんは、私を病室の隅に連れて行った。
そして、小さな声で話し始めた。
「実は、医者から聞いたんです」
「もう、治らないって」
その言葉に、私は何も言えなかった。
「余命は、半年くらいだって」
坂井さんの声は、震えていた。
「でも、家族には言えないんです」
「妻も、子どもも、まだ希望を持っているから」
坂井さんは、顔を覆った。
「井上さん、本当は、もう延命治療を続けたくないんです」
「苦しいんです」
「副作用で、身体中が痛い」
「吐き気も止まらない」
坂井さんは、私を見た。
その目には、深い絶望が滲んでいた。
「でも、家族が望むから、やめられない」
「家族は、まだ諦めていない」
「新しい治療法があるって、信じている」
坂井さんの声は、かすれていた。
「井上さん、お願いがあります」
「家族に、伝えてくれませんか?」
「私の気持ちを」
その言葉に、私は戸惑った。
坂井さんの気持ちを、家族に伝える。
それは、医療者としてやるべきことなのだろうか。
私は、少し考えた。
そして、答えた。
「それは、坂井さん自身が伝えるべきだと思います」
その言葉を口にした瞬間、坂井さんの顔が曇った。
「自分で、ですか」
「はい」
私は、続けた。
「患者さんの秘密を、私が勝手に家族に伝えるわけにはいきません」
「それは、医療者の倫理に反します」
「坂井さん自身が、家族に話すべきです」
私は、そう言った。
でも、本当はそうじゃなかった。
私は、ただ逃げていただけだった。
坂井さんと向き合うことから。
家族に伝える責任から。
坂井さんは、小さく笑った。
「そうですよね」
「自分で言わなきゃいけませんよね」
「ごめんなさい」
坂井さんは、謝った。
私は、その場を離れた。
でも、心のどこかで、違和感があった。
坂井さんの頼みを、断ってよかったのだろうか。
私は、自分に言い聞かせた。
患者の秘密を勝手に家族に伝えるわけにはいかない。
それは、医療者の倫理に反する。
坂井さん自身が決めることだ。
でも、坂井さんは、自分では言えなかった。
そして、数週間後。
坂井さんの容態が急変した。
家族は、新しい治療法を選択した。
高額な薬を使い、延命を図った。
でも、坂井さんは苦しんでいた。
副作用で、身体中が痛み、吐き気が止まらなかった。
私は、リハビリのために病室を訪れた。
坂井さんは、ベッドに横たわっていた。
顔色は悪く、目の下には深い隈ができていた。
「井上さん」
坂井さんが、私を呼んだ。
「はい」
「あなたは、裏切り者だ」
その言葉が、胸に突き刺さった。
「私は、あなたを信頼していた」
「でも、あなたは何もしてくれなかった」
坂井さんの声は、弱々しかった。
「私は、ただ家族に伝えてほしかっただけなんです」
「私の気持ちを」
「もう、これ以上治療を続けたくないって」
「苦しいって」
坂井さんは、涙を流した。
「でも、あなたは何もしなかった」
「倫理がどうとか、そんなこと言って」
「でも、本当は違うでしょう」
坂井さんは、私を見た。
「あなたは、ただ逃げただけだ」
「私と向き合うことから」
「責任を負うことから」
その言葉が、真実だった。
私は、逃げていた。
坂井さんは、目を閉じた。
「もう、いいです」
「帰ってください」
私は、何も言えなかった。
ただ、病室を出た。
そして、数日後。
坂井さんは、亡くなった。
苦しみながら、家族に囲まれて。
でも、坂井さんの本当の気持ちは、誰にも伝わらなかった。
私は、目を開けた。
コーヒーは、すっかり冷めていた。
あの日、私は間違っていた。
坂井さん自身が決めることだ、と言った。
でも、坂井さんには、その力がなかった。
だから、私に頼んだ。
私は、その頼みを受け止めるべきだった。
坂井さんと一緒に、家族に伝えるべきだった。
でも、私は逃げた。
そして、坂井さんは一人で苦しみながら死んだ。
私は、立ち上がった。
もう、同じ過ちは繰り返さない。
宮下さんには、一緒にいる。
それが、私にできる贖罪だった。
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