第14話 決意の重さ

その週の木曜日、私は再び宮下さんの家を訪れた。

 

今日は、いつもとは違う緊張感があった。

 

今週末、宮下さんは家族に本当のことを話す。

余命のこと、病気の進行のこと、すべてを。

 

そして、私はその場に立ち会うことになっている。

 

インターホンを押すと、妻が出迎えてくれた。

今日も、いつもと変わらない穏やかな笑顔だった。

 

「いらっしゃい。今日もお願いします」

「よろしくお願いします」

 

私は靴を脱ぎ、リビングに向かった。

 

宮下さんは、車椅子に座って窓の外を見ていた。

 

「こんにちは、浩二さん」

 

私が声をかけると、宮下さんはゆっくりとこちらを向いた。

 

「ああ、井上さん」

 

宮下さんの顔には、強い決意が浮かんでいた。

 

「今日の調子はいかがですか?」

「まあ、緊張していますが、大丈夫です」

 

宮下さんは、小さく笑った。

 

私は血圧計を取り出し、宮下さんの血圧を測った。

上が百四十、下が九十。

少し高めだが、緊張を考えれば許容範囲だ。

 

「血圧は、少し高いですが大丈夫そうですね」

「そうですか」

 

私は、宮下さんの関節可動域を確認し始めた。

 

でも、今日の宮下さんは身体が硬い。

緊張で、全身に力が入っているようだった。

 

「浩二さん、少し力を抜いてください」

「ああ、すみません」

 

宮下さんは、深く息を吐いた。

 

リハビリを続ける。

 

でも、宮下さんの心は、明らかにここにはなかった。

 

「浩二さん」

「はい」

「不安ですか?」

 

私が尋ねると、宮下さんは頷いた。

 

「ええ、とても」

「家族に、どう話せばいいのか」

「娘が、どう反応するのか」

 

宮下さんの声は、震えていた。

 

「妻は、もしかしたら気づいているかもしれません」

「でも、娘は何も知らない」

「受験を控えた娘に、こんな話をしていいのか」

 

宮下さんは、顔を覆った。

 

「でも、もう決めたんです」

「話すと」

 

私は、宮下さんの隣に座った。

 

「浩二さん、あなたは間違っていません」

 

私は、そう言った。

 

「家族には、知る権利があります」

「そして、あなたには、伝える権利があります」

「あなたが、どれだけ家族を愛しているか」

 

宮下さんは、私を見た。

 

「本当に、そう思いますか?」

「はい」

 

私は、頷いた。

 

「浩二さんが家族に話すのは、逃げることではありません」

「向き合うことです」

 

その言葉に、宮下さんは涙を流した。

 

「ありがとうございます」

「井上さんがいてくれて、本当によかった」

 

宮下さんは、私の手を握った。

 

「日曜日、本当に来てくれますか?」

「はい、必ず」

 

私は、約束した。

 

リハビリを終え、私は帰る準備を始めた。

 

その時、宮下さんが話し始めた。

 

「井上さん、実は、もう一つお願いがあるんです」

「何でしょうか?」

「日曜日、午後三時に来ていただけませんか?」

「分かりました」

 

宮下さんは、少し安堵したような顔をした。

 

「娘の受験が終わって、一週間経ちました」

「娘も、少し落ち着いたと思います」

「だから、このタイミングで話そうと思います」

 

宮下さんは、窓の外を見た。

 

「妻には、昨日話しました」

「井上さんに来てもらうことを」

 

その言葉に、私は少し驚いた。

 

「奥様は、何と?」

「最初は驚いていましたが、理解してくれました」

 

宮下さんは、小さく笑った。

 

「妻は、もう気づいていたようです」

「私が、何か隠していることを」

 

宮下さんは、私を見た。

 

「でも、娘には何も言っていません」

「日曜日に、初めて話します」

 

宮下さんの声は、覚悟を決めたもののようだった。

 

「分かりました。日曜日、午後三時に伺います」

「お願いします」

 

私は、宮下さんの家を出た。

 

車に乗り込み、エンジンをかけた。

 

日曜日。

宮下さんは、家族に本当のことを話す。

 

そして、私はその場にいる。

 

それは、私にとっても大きな一歩だった。

 

坂井さんには、何もしなかった。

家族に伝えることから、逃げた。

 

でも、宮下さんには、一緒にいる。

 

それは、私が変わろうとしているからだ。

 

もう、逃げない。

 

私は、アクセルを踏んだ。

 

次の訪問先は、吉岡さんの家だった。

 

インターホンを押すと、ヘルパーが出迎えてくれた。

 

「お疲れ様です」

「お疲れ様です。今日の様子はどうですか?」

「今日は、比較的穏やかですよ」

 

私はリビングに入った。

 

吉岡さんは、ソファに座ってテレビを見ていた。

 

「こんにちは、吉岡さん」

 

私が声をかけると、吉岡さんはゆっくりとこちらを向いた。

 

「あら、井上さん」

 

今日は、私の名前を呼んでくれた。

 

「今日は、足のリハビリをしましょうね」

「ええ、お願いします」

 

私は、吉岡さんの隣に座った。

 

リハビリを始める。

 

吉岡さんは、穏やかに私の手に従っている。

 

「吉岡さん、最近調子はどうですか?」

「ええ、まあまあよ」

 

吉岡さんは、小さく笑った。

 

「健三は、まだ帰ってこないけどね」

 

また、夫の話をしている。

 

私は、何も言わなかった。

ただ、黙って聞いていた。

 

「でもね、井上さん」

 

吉岡さんが、私を見た。

 

「健三がいなくても、私は大丈夫よ」

 

その言葉に、私は少し驚いた。

 

「大丈夫?」

「ええ」

 

吉岡さんは、窓の外を見た。

 

「健三は、もういないの」

「それは、分かっているわ」

 

吉岡さんの声は、静かだった。

 

「でも、時々忘れてしまうの」

「そして、また思い出す」

 

吉岡さんは、涙を流した。

 

「それを、繰り返しているの」

 

その言葉が、胸に響いた。

 

吉岡さんは、夫の死を知っている。

でも、忘れてしまう。

 

そして、また思い出す。

 

それは、あまりにも残酷だった。

 

「でもね、井上さん」

 

吉岡さんが、私の手を握った。

 

「それでも、いいの」

「健三のことを忘れても、また思い出せるから」

 

吉岡さんは、小さく笑った。

 

「記憶は、消えないの」

「ただ、一時的に見えなくなるだけ」

 

その言葉に、私は何も言えなかった。

 

吉岡さんの中では、夫の記憶は消えていない。

ただ、認知症によって、見えなくなっているだけ。

 

でも、時々見える。

 

そして、吉岡さんはそれを受け入れている。

 

「吉岡さん、強いですね」

 

私が言うと、吉岡さんは首を横に振った。

 

「強くなんかないわ」

「ただ、受け入れているだけ」

 

吉岡さんは、窓の外を見た。

 

「人は、忘れることも、思い出すこともできる」

「それが、人間なのよ」

 

その言葉が、心に沁みた。

 

リハビリを終え、吉岡さんをソファに座らせた。

 

「お疲れ様でした」

「ありがとう、井上さん」

 

吉岡さんは、私の名前を呼んだ。

 

でも、次の瞬間。

 

「あれ、あなた誰だっけ?」

 

吉岡さんは、不思議そうに私を見た。

 

また、記憶が途切れた。

 

私は、小さく笑った。

 

「井上です」

「そう」

 

吉岡さんは、穏やかに笑った。

 

私は、ヘルパーに挨拶をして、家を出た。

 

車に乗り込み、エンジンをかけた。

 

吉岡さんの言葉が、頭の中で繰り返される。

 

人は、忘れることも、思い出すこともできる。

それが、人間なのよ。

 

その言葉が、とても深く感じた。

 

私も、坂井さんのことを忘れたかった。

でも、忘れられなかった。

 

思い出し続けていた。

 

でも、それでいいのかもしれない。

 

忘れることも、思い出すことも、人間だから。

 

そして、それを受け入れることが、大事なのかもしれない。

 

私は、アクセルを踏んだ。

 

日曜日が、近づいている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る