逃げている人の顔
第12話 鏡に映る自分
金曜日の午前、私は田中さんの家を訪れた。
キーボックスに手を伸ばし、暗証番号を入力する。
2784。
蓋が開き、鍵を取り出す。
玄関を開けると、いつもと同じ畳の匂いがした。
「おはようございます」
声をかけると、奥から返事が返ってくる。
「ああ、井上さん。今日もありがとう」
私は靴を脱ぎ、廊下を歩いて居間に入った。
田中さんは、座椅子に座っていた。
今日は、少し疲れているように見えた。
「田中さん、大丈夫ですか?」
「ええ、大丈夫よ。ちょっと眠れなかっただけ」
田中さんは、小さく笑った。
私は血圧計を取り出し、田中さんの血圧を測った。
上が百四十、下が九十。
少し高い。
「血圧が少し高いですね」
「そう。昨日、少し考え事をしてしまって」
田中さんは、窓の外を見た。
私は、リハビリを始めた。
膝の曲げ伸ばし、立ち上がりの練習。
田中さんは、いつもと同じように、静かに私の手に従っている。
でも、今日は少し様子が違った。
時折、深いため息をついている。
「田中さん、何か心配なことがあるんですか?」
私が尋ねると、田中さんは少し迷うような顔をした。
「井上さん」
「はい」
「人は、秘密を抱えたまま死んでもいいのかしら」
その問いに、私は少し驚いた。
「秘密を抱えたまま?」
「ええ」
田中さんは、私を見た。
「私はね、ずっと秘密を抱えてきた」
「誰にも話さずに」
「でも、井上さんに話したわ」
田中さんは、小さく笑った。
「話したら、少し楽になった」
「でも、秘密が消えたわけじゃない」
田中さんの声は、静かだった。
「私が死んだら、この秘密はどうなるのかしら」
「井上さんが、抱え続けるの?」
その言葉に、私は何も言えなかった。
田中さんの秘密を、私は知っている。
戦争中に隣人を密告したこと。
その秘密を、私は一緒に抱えている。
でも、田中さんが亡くなったら。
その秘密は、私だけが知ることになる。
それは、重荷なのだろうか。
「井上さん、ごめんなさい」
田中さんが、謝った。
「重い話をしてしまって」
「いえ」
私は、首を横に振った。
「大事な話です」
田中さんは、小さく笑った。
「井上さんは、優しいのね」
「いつも、私の話を聞いてくれて」
田中さんは、私の手を握った。
「でもね、井上さん」
「あなたも、そろそろ話してもいいんじゃないかしら」
その言葉に、私は息を呑んだ。
「あなたの秘密を」
田中さんは、私の顔をじっと見た。
「あなたは、何かから逃げている」
「何かを、抱えている」
「それを、一人で抱え続けているでしょう」
田中さんの声は、優しかった。
「でも、それはとても辛いことよ」
「私が、七十年間抱えてきたから分かるの」
田中さんは、涙を流した。
「一人で抱えるのは、辛い」
「だから、誰かと一緒に抱えてほしい」
その言葉が、胸に響いた。
私は、八年間一人で抱えてきた。
坂井さんのことを。
誰にも話さずに。
でも、それは辛かった。
毎日、坂井さんの顔が浮かんでくる。
あなたは、裏切り者だ。
その言葉が、耳に残っている。
それを、一人で抱え続けてきた。
でも、もう限界なのかもしれない。
「田中さん」
私は、小さく声を出した。
「はい」
「私、実は」
私は、言葉を探していた。
坂井さんのことを、話すべきなのだろうか。
でも、話したら楽になるのだろうか。
私は、迷っていた。
「ゆっくりでいいのよ」
田中さんが、優しく言った。
「話したいときに、話せばいい」
「無理に話す必要はないわ」
その言葉に、私は少し安堵した。
「ありがとうございます」
「いいのよ」
田中さんは、小さく笑った。
リハビリを終え、私は帰る準備を始めた。
「また、火曜日に来ますね」
「ええ。待ってるわ」
田中さんは、穏やかに笑った。
玄関を出て、鍵をキーボックスに戻す。
蓋を閉める。
車に乗り込み、エンジンをかけた。
田中さんの言葉が、頭の中で繰り返される。
あなたも、そろそろ話してもいいんじゃないかしら。
でも、私は話せなかった。
まだ、準備ができていなかった。
坂井さんのことを話すのは、私にとってあまりにも重すぎた。
私は、アクセルを踏んだ。
次の訪問先に向かう。
午後、私は宮下さんの家を訪れた。
インターホンを押すと、妻が出迎えてくれた。
「いらっしゃい。今日もお願いします」
「よろしくお願いします」
私は靴を脱ぎ、リビングに向かった。
宮下さんは、車椅子に座って窓の外を見ていた。
「こんにちは、浩二さん」
私が声をかけると、宮下さんはこちらを向いた。
「ああ、井上さん」
宮下さんは、少し暗い表情をしていた。
「今日の調子はいかがですか?」
「まあ、いつも通りです」
宮下さんは、そう言ったが、様子が違った。
私は血圧計を取り出し、宮下さんの血圧を測った。
上が百四十五、下が九十五。
高い。
「血圧が高いですね。何かありましたか?」
宮下さんは、少し視線を逸らした。
「実は、昨日娘と話をしたんです」
「娘さんと?」
「ええ」
宮下さんは、窓の外を見た。
「娘が、将来のことを話してくれたんです」
「大学に行ったら、建築を学びたいと」
宮下さんの声は、震えていた。
「私と、同じ道を選びたいと」
宮下さんは、涙を流した。
「でも、私はもう」
「娘の成長を、最後まで見られない」
その言葉に、私は胸が詰まった。
宮下さんは、余命二年と言われている。
娘が大学に入学する頃には、もういないかもしれない。
「娘は、まだ何も知らないんです」
「私の病気のこと」
「余命のこと」
宮下さんは、顔を覆った。
「このまま、隠し続けていいのか分からない」
「でも、今話したら、娘の受験に影響が出る」
宮下さんは、苦しんでいた。
私は、宮下さんの隣に座った。
「浩二さん」
「はい」
「私には、正解は分かりません」
私は、正直に答えた。
「でも、浩二さんが決めたことなら、私は一緒にいます」
宮下さんは、私を見た。
「本当に、一緒にいてくれますか?」
「はい」
私は、頷いた。
宮下さんは、小さく笑った。
「井上さん、あなたは不思議な人ですね」
「不思議?」
「ええ」
宮下さんは、私の顔を見た。
「あなたは、逃げている人の顔をしている」
「でも、私には一緒にいてくれると言う」
その言葉に、私は何も言えなかった。
「矛盾していると思いませんか?」
宮下さんの声は、鋭かった。
「あなたは、何から逃げているんですか?」
その問いに、私は答えられなかった。
「井上さん、あなたも誰かを裏切ったんですか?」
その言葉が、胸に突き刺さった。
宮下さんは、私の目を見ていた。
「図星のようですね」
宮下さんは、小さくため息をついた。
「井上さん、あなたが私に一緒にいてくれると言うなら」
「あなたも、誰かに話すべきです」
「あなたの秘密を」
その言葉が、心に沁みた。
私は、宮下さんに一緒にいると約束した。
でも、私自身は一人で秘密を抱えている。
それは、矛盾している。
宮下さんの言う通りだ。
「私は」
私は、小さく声を出した。
「私は、八年前に患者を裏切りました」
その言葉が、口から出た。
宮下さんは、黙って聞いていた。
「その患者は、家族に本当のことを伝えてほしいと頼みました」
「でも、私は何もしませんでした」
私の声は、震えていた。
「結果、その患者は苦しみながら死にました」
「最期に、私を裏切り者と呼びました」
私は、顔を覆った。
「私は、それから逃げ続けています」
「八年間、ずっと」
その言葉を口にした瞬間、涙が溢れてきた。
私は、初めて誰かに話した。
坂井さんのことを。
宮下さんは、何も言わなかった。
ただ、私の肩に手を置いた。
「井上さん」
「はい」
「話してくれて、ありがとうございます」
その言葉に、私は顔を上げた。
宮下さんは、穏やかに笑っていた。
「あなたは、八年間一人で抱えてきたんですね」
「はい」
「それは、とても辛かったでしょう」
宮下さんの声は、優しかった。
「でも、今日話してくれた」
「それだけで、十分です」
宮下さんは、私の肩を叩いた。
「これから、一緒に抱えましょう」
「あなたの秘密も、私の秘密も」
その言葉に、私は涙が止まらなくなった。
宮下さんは、私を抱きしめてくれた。
「大丈夫です、井上さん」
「あなたは、一人じゃない」
その言葉が、心に響いた。
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