第11話 抱えることの意味

第11話 抱えることの意味

 

木曜日の午前、私は再び宮下さんの家を訪れた。

 

インターホンを押すと、妻が出迎えてくれた。

今日は、表情が少し明るかった。

 

「いらっしゃい。今日もお願いします」

「よろしくお願いします」

 

私は靴を脱ぎ、リビングに向かった。

 

宮下さんは、車椅子に座って窓の外を見ていた。

 

「こんにちは、浩二さん」

 

私は、宮下さんの名前を呼んだ。

 

宮下さんは、少し驚いたような顔でこちらを向いた。

 

「井上さん」

 

宮下さんは、小さく笑った。

 

「名前で、呼んでくれたんですね」

「はい」

 

私は、宮下さんの隣に椅子を置いて座った。

 

「今日の調子はいかがですか?」

「まあ、変わらないです」

 

宮下さんは、そう言ったが、顔色は前回よりも良かった。

 

私は血圧計を取り出し、宮下さんの血圧を測った。

上が百三十、下が八十五。

前回よりも、だいぶ落ち着いている。

 

「血圧も、安定してきましたね」

「そうですか」

 

宮下さんは、少し安堵したような表情を見せた。

 

私は、宮下さんの関節可動域を確認し始めた。

 

今日は、宮下さんの身体がいつもより柔らかい。

肩も、肘も、スムーズに動く。

 

「身体の力が、抜けていますね」

「ええ、少し気が楽になったんです」

 

宮下さんは、そう言った。

 

「気が楽に?」

「はい」

 

宮下さんは、窓の外を見た。

 

「実は、昨日妻と話をしたんです」

「話を?」

「ええ」

 

宮下さんは、私を見た。

 

「妻が、私のことを浩二と呼んでくれたんです」

「久しぶりに」

 

宮下さんの声は、嬉しそうだった。

 

「井上さんが、妻に言ってくれたんでしょう?」

「ええ、少しだけ」

 

私は、頷いた。

 

「ありがとうございます」

 

宮下さんは、深く頭を下げた。

 

「名前を呼ばれるって、こんなに嬉しいことなんですね」

「私、忘れていました」

 

宮下さんは、小さく笑った。

 

私は、何も言わなかった。

ただ、宮下さんの笑顔を見ていた。

 

リハビリを続ける。

 

今日の宮下さんは、いつもより積極的だった。

立ち上がりの練習も、しっかりとこなしている。

 

「浩二さん、今日は調子がいいですね」

「ええ、気持ちが前向きになると、身体も動くものですね」

 

宮下さんは、そう言って歩き始めた。

 

リビングから廊下へ。

一歩、一歩。

 

足取りは、まだ不安定だが、前回よりもしっかりしている。

 

廊下を往復して、また車椅子に戻る。

 

「お疲れ様でした」

「ありがとうございます」

 

宮下さんは、少し息を切らせながら、笑っていた。

 

私はカバンを片付け始めた。

 

その時、宮下さんが話し始めた。

 

「井上さん、実は、もう一つ話したいことがあるんです」

 

私は、手を止めて宮下さんを見た。

 

「何でしょうか?」

「前に話しましたよね」

「私が、家族に病気のことを隠しているって」

「はい」

 

宮下さんは、少し迷うような顔をした。

 

「実は、まだ話していないんです」

「家族に、本当のことを」

 

宮下さんは、俯いた。

 

「余命のことも、病気の進行のことも」

「全部、隠したままです」

 

その言葉に、私は何も言わなかった。

ただ、黙って聞いていた。

 

「でも、このままでいいのか分からないんです」

 

宮下さんの声は、震えていた。

 

「娘の受験が終わったら、話そうと思っていました」

「でも、それでいいのか」

「それとも、今すぐ話すべきなのか」

 

宮下さんは、私を見た。

 

「井上さん、あなたなら、どうしますか?」

 

その問いに、私は答えられなかった。

 

正直に話すべきなのか。

それとも、隠し続けるべきなのか。

 

どちらが正しいのか、分からなかった。

 

でも、一つだけ言えることがあった。

 

「浩二さん」

「はい」

「私には、正解は分かりません」

 

私は、正直に答えた。

 

「でも、一つだけ言えることがあります」

「何でしょうか?」

「浩二さんが決めたことなら、私は一緒にいます」

 

その言葉に、宮下さんは少し驚いたような顔をした。

 

「一緒に、いてくれるんですか?」

「はい」

 

私は、頷いた。

 

「浩二さんが家族に話すと決めたなら、私はその場にいます」

「話さないと決めたなら、それも尊重します」

「でも、浩二さんが一人で抱える必要はありません」

 

その言葉に、宮下さんは涙を流した。

 

「ありがとうございます」

 

宮下さんは、小さく笑った。

 

「井上さん、あなたは優しい人ですね」

 

私は、首を横に振った。

 

「優しいわけじゃありません」

「ただ、一緒にいるだけです」

 

宮下さんは、涙を拭いた。

 

「それが、優しさなんですよ」

 

その言葉が、胸に響いた。

 

一緒にいること。

それが、優しさなのかもしれない。

 

田中さんは、私に秘密を話してくれた。

そして、私はその秘密を一緒に抱えている。

 

宮下さんも、私に秘密を話してくれた。

そして、私はその秘密を一緒に抱えている。

 

それが、信頼の重さなのかもしれない。

 

でも、私は。

 

私の秘密を、誰かに話したことがあるだろうか。

 

坂井さんのことを、誰かに話したことがあるだろうか。

 

私は、八年間一人で抱えてきた。

 

でも、もう限界なのかもしれない。

 

「また、月曜日に来ますね」

「はい。お願いします」

 

宮下さんは、穏やかに笑った。

 

玄関で靴を履いていると、宮下さんの妻が声をかけてきた。

 

「井上さん、ありがとうございます」

「いえ」

「主人が、最近元気になったんです」

 

妻は、嬉しそうに言った。

 

「井上さんのおかげです」

「そんなことは」

 

私は、首を横に振った。

 

「浩二さんが、頑張っているんです」

 

妻は、小さく笑った。

 

「浩二、ですか」

「久しぶりに、その名前で呼びました」

「井上さんに言われて」

 

妻は、少し照れたような顔をした。

 

「私、忘れていました」

「夫の名前を呼ぶことを」

 

妻は、窓の外を見た。

 

「主人は、病気になってから、お父さんになってしまって」

「浩二じゃなくなってしまって」

 

妻の声は、少し寂しそうだった。

 

「でも、主人は浩二なんですよね」

「病気になっても、変わらない」

 

妻は、私を見た。

 

「教えていただいて、ありがとうございます」

 

私は、頷いた。

 

そして、家を出た。

 

車に乗り込み、エンジンをかけた。

 

宮下さんの言葉が、頭の中で繰り返される。

 

一緒にいてくれるんですか?

 

その問いに、私は答えた。

 

はい、と。

 

でも、私は本当に一緒にいることができるのだろうか。

 

坂井さんには、一緒にいなかった。

 

坂井さんが助けを求めたとき、私は逃げた。

 

家族に伝える責任から、逃げた。

 

そして、坂井さんは一人で死んだ。

 

私は、坂井さんを裏切った。

 

でも、今は違う。

 

宮下さんには、一緒にいると約束した。

 

それは、私が変わろうとしているからだろうか。

 

それとも、ただの自己満足だろうか。

 

私には、分からなかった。

 

でも、一つだけ分かることがあった。

 

私は、もう逃げたくない。

 

宮下さんと、一緒にいたい。

 

田中さんと、一緒にいたい。

 

吉岡さんと、一緒にいたい。

 

それが、この仕事の本当の意味なのかもしれない。

 

他人の生活に入り、身体に触れる。

それだけじゃない。

 

他人の秘密を一緒に抱える。

一緒にいる。

 

それが、訪問リハビリという仕事なのかもしれない。

 

私は、アクセルを踏んだ。

 

次の訪問先はない。

今日の仕事は、これで終わりだ。

 

でも、私の心の中では、何かが動き始めていた。

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