秘密を抱える理由

第10話 信頼という重荷

火曜日の午前、私は田中さんの家を訪れた。

 

キーボックスに手を伸ばし、暗証番号を入力する。

2784。

蓋が開き、鍵を取り出す。

 

玄関を開けると、いつもと同じ畳の匂いがした。

 

「おはようございます」

 

声をかけると、奥から返事が返ってくる。

 

「ああ、井上さん。今日もありがとう」

 

私は靴を脱ぎ、廊下を歩いて居間に入った。

 

田中さんは、座椅子に座っていた。

今日は、少し元気そうに見えた。

 

「田中さん、今日は調子がよさそうですね」

「ええ、よく眠れたの」

 

田中さんは、小さく笑った。

 

私は血圧計を取り出し、田中さんの血圧を測った。

上が百三十五、下が八十五。

前回よりも、落ち着いている。

 

「血圧も、安定していますね」

「そう。よかったわ」

 

私は、リハビリを始めた。

 

膝の曲げ伸ばし、立ち上がりの練習。

田中さんは、いつもと同じように、静かに私の手に従っている。

 

リハビリを続けながら、私は田中さんに話しかけた。

 

「田中さん、前に話してくださったこと、覚えていますか?」

 

田中さんは、少し驚いたような顔をした。

 

「私が、人を裏切ったという話?」

「はい」

 

田中さんは、窓の外を見た。

 

「ええ、覚えているわ」

「あの日から、ずっと考えているの」

 

田中さんの声は、静かだった。

 

「私は、ずっと一人で抱えてきた」

「誰にも話さずに」

「でも、井上さんに話してから、少し楽になったの」

 

田中さんは、私を見た。

 

「話すって、大事なのね」

 

その言葉に、私は頷いた。

 

「でもね、井上さん」

 

田中さんが、また話し始めた。

 

「話したからといって、秘密が消えるわけじゃないの」

「裏切ったことが、なくなるわけじゃない」

 

田中さんの声は、震えていた。

 

「ただ、誰かと一緒に抱えることができる」

「それだけ」

 

その言葉が、胸に響いた。

 

秘密は、消えない。

でも、一緒に抱えることはできる。

 

田中さんは、私に秘密を話した。

それは、私を信頼したからだ。

 

そして、私はその秘密を一緒に抱えている。

 

それが、信頼の重さなのかもしれない。

 

「井上さん」

「はい」

「あなたも、何か秘密を抱えているでしょう?」

 

田中さんの言葉に、私は息を呑んだ。

 

「私には、分かるの」

「あなたの目を見れば」

 

田中さんは、私の顔をじっと見た。

 

「あなたは、何かから逃げている」

「何かを、抱えている」

 

その言葉が、胸に刺さった。

 

宮下さんにも、同じことを言われた。

 

私は、逃げている。

秘密を抱えている。

 

でも、それを誰にも話していない。

 

「井上さん」

 

田中さんが、優しく声をかけた。

 

「話したくなったら、話してもいいのよ」

「私は、聞くわ」

 

その言葉に、私は涙が出そうになった。

 

田中さんは、私を信頼してくれている。

そして、私の秘密を聞く準備がある。

 

でも、私はまだ話せない。

 

坂井さんのことを、話せない。

 

「ありがとうございます」

 

私は、それだけ言った。

 

田中さんは、小さく笑った。

 

「いいのよ。無理に話す必要はないわ」

「でも、覚えておいて」

「秘密は、一人で抱える必要はないってこと」

 

その言葉が、心に沁みた。

 

リハビリを終え、私は帰る準備を始めた。

 

「また、金曜日に来ますね」

「ええ。待ってるわ」

 

田中さんは、穏やかに笑った。

 

玄関を出て、鍵をキーボックスに戻す。

蓋を閉める。

 

車に乗り込み、エンジンをかけた。

 

田中さんの言葉が、頭の中で繰り返される。

 

秘密は、一人で抱える必要はない。

 

でも、私は八年間、一人で抱えてきた。

 

坂井さんのことを。

 

あなたは、裏切り者だ。

 

その言葉を。

 

私は、誰にも話していない。

 

病院を辞めた理由も、誰にも言っていない。

 

ただ、訪問リハビリという仕事を選び、逃げ続けてきた。

 

でも、もう逃げられないのかもしれない。

 

午後、私は吉岡さんの家を訪れた。

 

インターホンを押すと、ヘルパーが出迎えてくれた。

 

「お疲れ様です」

「お疲れ様です。今日の様子はどうですか?」

「今日は、わりと落ち着いていますよ」

 

私はリビングに入った。

 

吉岡さんは、ソファに座ってテレビを見ていた。

 

「こんにちは、吉岡さん」

 

私が声をかけると、吉岡さんはゆっくりとこちらを向いた。

 

「あら、井上さん」

 

今日は、私の名前を呼んだ。

 

私は、少し嬉しくなった。

 

「今日は、足のリハビリをしましょうね」

「ええ、お願いします」

 

私は、吉岡さんの隣に座った。

 

リハビリを始める。

 

吉岡さんは、穏やかに私の手に従っている。

 

「吉岡さん、今日は私のこと、覚えていてくれたんですね」

 

私が言うと、吉岡さんは小さく笑った。

 

「ええ、今日はね」

「でも、明日は忘れているかもしれないわ」

 

吉岡さんは、自分の病気を理解しているようだった。

 

「それでも、いいんですよ」

 

私は、そう言った。

 

でも、心の中では違った。

 

私は、吉岡さんに名前を呼ばれたい。

覚えていてほしい。

 

それが、人として向き合うということだと、宮下さんに教えられた。

 

「井上さん」

 

吉岡さんが、私の名前を呼んだ。

 

「はい」

「あなたは、優しい人ね」

 

吉岡さんは、私の顔を見た。

 

「でも、悲しそうな目をしているわ」

 

その言葉に、私は驚いた。

 

「悲しそう、ですか?」

「ええ」

 

吉岡さんは、私の手を握った。

 

「何か、辛いことがあったの?」

 

その言葉に、私は何も答えられなかった。

 

吉岡さんは、認知症だ。

でも、今この瞬間、私のことを見ている。

 

私の目を見て、悲しみを感じている。

 

「大丈夫よ」

 

吉岡さんは、優しく言った。

 

「辛いことがあっても、いつか楽になるわ」

「私みたいに、忘れることができればね」

 

吉岡さんは、小さく笑った。

 

その笑顔は、とても穏やかだった。

 

でも、その言葉は、とても重かった。

 

忘れることができれば、楽になる。

 

それは、本当なのだろうか。

 

吉岡さんは、夫の死を忘れている。

だから、悲しまない。

 

でも、時々思い出す。

そして、また悲しむ。

 

それを、繰り返している。

 

忘れることは、救いなのか。

それとも、残酷なのか。

 

私には、分からなかった。

 

リハビリを終え、吉岡さんをソファに座らせた。

 

「お疲れ様でした」

「ありがとう、井上さん」

 

吉岡さんは、私の名前を呼んだ。

 

私は、嬉しかった。

 

でも、すぐに。

 

「あれ、あなた誰だっけ?」

 

吉岡さんは、不思議そうに私を見た。

 

また、記憶が途切れた。

 

私は、小さくため息をついた。

 

「井上です」

「そう」

 

吉岡さんは、穏やかに笑った。

 

私はカバンを片付け、帰る準備を始めた。

 

ヘルパーに挨拶をして、家を出た。

 

車に乗り込み、エンジンをかけた。

 

吉岡さんは、私の名前を呼んでくれた。

でも、すぐに忘れた。

 

それは、寂しいことだった。

 

でも、同時に、少し嬉しかった。

 

吉岡さんは、一瞬でも、私を認識してくれた。

井上として、見てくれた。

 

それだけで、十分なのかもしれない。

 

私は、アクセルを踏んだ。

 

家に帰る。

 

その夜、私はベッドに横になった。

 

田中さんの言葉が、頭の中で繰り返される。

 

秘密は、一人で抱える必要はない。

 

でも、私はまだ話せない。

 

坂井さんのことを。

 

私が、坂井さんを裏切ったことを。

 

でも、いつか話さなければならない日が来るのかもしれない。

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