第9話 呼ばれることの意味

月曜日の午前、私は再び宮下さんの家を訪れた。

 

インターホンを押すと、妻が出迎えてくれた。

今日は、いつもと違う緊張感が顔に浮かんでいた。

 

「いらっしゃい。今日もお願いします」

「よろしくお願いします」

 

私は靴を脱ぎ、リビングに向かった。

 

宮下さんは、車椅子に座って窓の外を見ていた。

 

「こんにちは」

 

私が声をかけると、宮下さんはゆっくりとこちらを向いた。

 

「ああ、井上さん」

 

宮下さんの声は、いつもより弱々しかった。

 

「今日の調子はいかがですか?」

「まあ、いつも通りです」

 

宮下さんは、そう言ったが、顔色は明らかに悪かった。

 

私は血圧計を取り出し、宮下さんの血圧を測った。

上が百四十五、下が九十五。

かなり高い。

 

「血圧が高いですね。最近、何かストレスがありましたか?」

 

私が尋ねると、宮下さんは少し視線を逸らした。

 

「いえ、特に」

 

嘘をついている。

それは、明らかだった。

 

私は、宮下さんの関節可動域を確認し始めた。

 

でも、今日は宮下さんの身体がいつも以上に硬い。

肩も、肘も、手首も、動きが悪い。

 

「身体に力が入っていますね」

「そうですか」

 

宮下さんは、淡々と答えた。

 

リハビリを続ける。

 

でも、宮下さんは何も話さなかった。

いつもなら、会話をするのだが、今日は沈黙が続いている。

 

「宮下さん」

「はい」

「何か、心配なことがあるんですか?」

 

私が尋ねると、宮下さんは窓の外を見た。

 

「井上さん」

「はい」

「あなたは、人に名前を呼ばれることを、どう思いますか?」

 

その質問に、私は少し戸惑った。

 

「名前を呼ばれること、ですか?」

「ええ」

 

宮下さんは、私を見た。

 

「私は、最近気づいたんです」

「家族が、私の名前を呼ばなくなったことに」

 

その言葉に、私は息を呑んだ。

 

「妻は、『お父さん』と呼ぶ」

「娘は、『パパ』と呼ぶ」

「でも、『浩二』とは呼ばない」

 

宮下さんの声は、静かだった。

 

「昔は、妻も『浩二さん』と呼んでいたのに」

「いつから、呼ばなくなったんだろう」

 

宮下さんは、窓の外を見た。

 

「病気になってから、かもしれない」

「私が、『病人』になってから」

 

その言葉に、私は何も言えなかった。

 

「井上さん、あなたの患者さんは、あなたの名前を呼びますか?」

 

宮下さんが、私に尋ねた。

 

私は、少し考えた。

 

田中さんは、私を井上さんと呼ぶ。

でも、吉岡さんは。

 

「吉岡さんという方は、私を健三さんと呼びます」

「健三さん?」

「ご主人の名前です」

 

宮下さんは、小さく笑った。

 

「認知症の方ですか?」

「はい」

「じゃあ、あなたのことを覚えていないんですね」

「……はい」

 

私は、頷いた。

 

「でも、それでいいんです」

 

私は、そう言った。

 

「覚えていなくても、私は仕事をするだけですから」

 

宮下さんは、私をじっと見た。

 

「本当に、それでいいんですか?」

 

その問いに、私は答えられなかった。

 

「井上さん、あなたは人に名前を呼ばれなくても、平気なんですか?」

 

宮下さんの声は、鋭かった。

 

「人に認識されなくても、平気なんですか?」

 

その言葉が、胸に刺さった。

 

私は、吉岡さんに名前を呼ばれなくても、気にならなかった。

むしろ、安心していた。

 

なぜなら、認識されなければ、責任も負わなくていいから。

 

でも、それは本当にいいことなのだろうか。

 

「井上さん」

 

宮下さんが、私の名前を呼んだ。

 

「はい」

「私は、名前を呼ばれたいんです」

「浩二、と」

 

宮下さんの声は、震えていた。

 

「病人としてじゃなく」

「お父さんやパパとしてじゃなく」

「浩二として、呼ばれたい」

 

宮下さんは、顔を覆った。

 

「でも、もう呼ばれない」

「私は、もう浩二じゃない」

「ただの、病人なんです」

 

その言葉に、私は胸が詰まった。

 

名前を呼ばれること。

それは、存在を認められることだ。

 

宮下さんは、病気になってから、名前を呼ばれなくなった。

家族にとって、宮下さんは浩二ではなく、お父さんになった。

 

それは、役割としての存在だ。

個人としての存在ではない。

 

私は、宮下さんの隣に座った。

 

「宮下さん」

「はい」

「浩二さん」

 

私は、宮下さんの名前を呼んだ。

 

宮下さんは、顔を上げた。

 

その目には、涙が浮かんでいた。

 

「ありがとうございます」

 

宮下さんは、小さく笑った。

 

「久しぶりに、名前を呼ばれました」

 

その笑顔は、とても嬉しそうだった。

 

私は、何も言わなかった。

ただ、宮下さんの手を握った。

 

しばらくして、宮下さんは落ち着いた。

 

「すみません。変なことを言ってしまって」

「いえ」

 

私は、首を横に振った。

 

「大事なことを教えていただきました」

 

宮下さんは、小さく笑った。

 

リハビリを再開する。

 

でも、私の心の中では、何かが変わり始めていた。

 

名前を呼ばれること。

認識されること。

 

それは、人間にとって、とても大事なことなのかもしれない。

 

吉岡さんは、私の名前を覚えていない。

でも、それでいいと思っていた。

 

でも、本当はそうじゃない。

 

吉岡さんに、井上と呼ばれたい。

認識されたい。

 

それが、人として向き合うということなのかもしれない。

 

リハビリを終え、私は帰る準備を始めた。

 

「また、木曜日に来ますね」

「はい。お願いします」

 

宮下さんは、穏やかに笑った。

 

玄関で靴を履いていると、宮下さんの妻が声をかけてきた。

 

「井上さん、主人の様子、どうでしたか?」

 

私は、少し考えた。

 

そして、妻に言った。

 

「宮下さん、名前を呼ばれたがっていますよ」

「名前?」

「はい。浩二さん、と」

 

妻は、少し驚いたような顔をした。

 

「そうなんですか」

「私、最近お父さんとしか呼んでいませんでした」

 

妻は、少し考えるような顔をした。

 

「気をつけます。ありがとうございます」

 

私は、頷いた。

 

そして、家を出た。

 

車に乗り込み、エンジンをかけた。

 

宮下さんの言葉が、頭の中で繰り返される。

 

人に名前を呼ばれなくても、平気なんですか?

 

その問いに、私はまだ答えを出せていなかった。

 

でも、一つだけ分かったことがあった。

 

私は、吉岡さんに井上と呼ばれたい。

田中さんに井上と呼ばれたい。

宮下さんに井上と呼ばれたい。

 

認識されたい。

存在を認められたい。

 

それが、人として向き合うということなのかもしれない。

 

私は、八年間、それから逃げてきた。

 

認識されることから。

責任を負うことから。

 

でも、もう逃げられないのかもしれない。

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