名前を呼ばれない家
第8話 記憶の断片
金曜日の午後、私は再び吉岡さんの家を訪れた。
インターホンを押すと、ヘルパーが出迎えてくれた。
「お疲れ様です」
「お疲れ様です。今日の様子はどうですか?」
「今日は、朝から少し落ち着かなくて」
ヘルパーは、少し困ったような顔をした。
「何度も玄関に行って、誰かを待っているみたいなんです」
「そうですか」
私は、リビングに入った。
吉岡さんは、ソファに座っていた。
でも、落ち着きがなく、時折立ち上がろうとしている。
「こんにちは、吉岡さん」
私が声をかけると、吉岡さんはこちらを向いた。
「あら、健三さん」
また、夫の名前で呼ばれた。
「井上です。リハビリの」
「……井上さん?」
吉岡さんは、少し首を傾げた。
「ごめんなさい。よく分からなくて」
「大丈夫ですよ」
私は、吉岡さんの隣に座った。
「今日は、足のリハビリをしましょうね」
「ええ」
吉岡さんは、少し不安そうな顔をしていた。
私は、吉岡さんの足を支え、ゆっくりと動かしていった。
でも、吉岡さんの様子がいつもと違う。
何度も窓の外を見て、誰かを探している。
「吉岡さん、誰を待っているんですか?」
私が尋ねると、吉岡さんは私を見た。
「健三が、帰ってこないの」
「朝から、ずっと」
吉岡さんの声は、不安そうだった。
「健三は、いつもこの時間には帰ってくるのに」
「どこに行ったのかしら」
吉岡さんは、また窓の外を見た。
私は、何も言わなかった。
吉岡さんの夫は、もうこの世にいない。
でも、吉岡さんの中では、夫はまだ生きている。
そして、帰りを待っている。
「大丈夫ですよ。きっと、すぐに帰ってきます」
私は、そう言った。
吉岡さんは、少し安心したような顔をした。
「そう。そうよね」
「健三は、ちゃんと帰ってくるわよね」
吉岡さんは、小さく笑った。
リハビリを続ける。
でも、吉岡さんは何度も窓の外を見ていた。
「健三、遅いわね」
吉岡さんが、独り言のように呟いた。
私は、胸が痛んだ。
吉岡さんは、夫の帰りを待ち続けている。
永遠に帰ってこない夫を。
それは、あまりにも切なかった。
リハビリを終え、吉岡さんをソファに座らせた。
「お疲れ様でした」
「ありがとう」
吉岡さんは、穏やかに笑った。
でも、すぐに不安そうな顔になった。
「健三、まだ帰ってこないわ」
私は、吉岡さんの手を握った。
「大丈夫です。吉岡さん」
吉岡さんは、私の顔を見た。
「あなた、誰だっけ?」
「井上です」
「そう」
吉岡さんは、また窓の外を見た。
私はカバンを片付け、帰る準備を始めた。
その時、吉岡さんが突然立ち上がった。
「健三!」
吉岡さんは、玄関に向かって歩き始めた。
私は、慌てて吉岡さんを支えた。
「吉岡さん、どうしたんですか?」
「健三が、帰ってきたわ」
「玄関で待ってるの」
吉岡さんは、玄関に向かおうとした。
でも、玄関には誰もいない。
「吉岡さん、誰もいませんよ」
「いいえ、いるわ」
「健三が、帰ってきたの」
吉岡さんは、私の手を振り払って玄関に向かった。
ヘルパーも駆けつけた。
「吉岡さん、大丈夫ですか?」
吉岡さんは、玄関の扉を開けた。
でも、そこには誰もいなかった。
吉岡さんは、呆然と立ち尽くした。
「健三……」
その声は、とても悲しそうだった。
私とヘルパーは、吉岡さんをリビングに戻した。
吉岡さんは、ソファに座り、涙を流していた。
「健三が、いないの」
「どこに行ったのかしら」
吉岡さんは、顔を覆った。
私は、吉岡さんの隣に座り、手を握った。
「大丈夫です。吉岡さん」
でも、吉岡さんは泣き続けていた。
しばらくして、吉岡さんは泣き止んだ。
そして、顔を上げた。
「あら、あなた誰だっけ?」
吉岡さんは、不思議そうに私を見た。
また、記憶が途切れた。
さっきまでの悲しみも、涙も、すべて忘れている。
それが、認知症だった。
私は、ヘルパーに挨拶をして、家を出た。
車に乗り込み、エンジンをかけた。
吉岡さんの涙が、忘れられなかった。
吉岡さんは、夫を待ち続けている。
でも、夫はもう帰ってこない。
そして、吉岡さんはそれを何度も忘れる。
忘れては、また思い出す。
思い出しては、また悲しむ。
それを、繰り返している。
認知症は、残酷だ。
でも、同時に優しくもある。
吉岡さんは、悲しみを忘れることができる。
前回、吉岡さんは夫の死の真相を話していた。
転んだのか、それとも。
でも、今はそれも忘れている。
記憶が途切れることで、苦しみも消える。
それは、救いなのだろうか。
私には、分からなかった。
でも、一つだけ分かることがあった。
吉岡さんは、名前を呼ばれない。
正しく認識されない。
私は、時々井上と呼ばれる。
でも、ほとんどは健三と呼ばれる。
それは、寂しいことだろうか。
いや、違う。
私は、吉岡さんに名前を呼ばれなくても、気にならなかった。
むしろ、安心していた。
なぜなら、私は吉岡さんに覚えられなくていい。
認識されなくていい。
ただ、リハビリをして、出ていけばいい。
それが、楽だった。
でも、それは本当にいいことなのだろうか。
私は、アクセルを踏んだ。
次の訪問先はない。
今日の仕事は、これで終わりだ。
家に帰る。
一人の部屋に戻る。
その夜、私はベッドに横になった。
でも、眠れなかった。
吉岡さんの涙が、頭から離れなかった。
健三が、いないの。
その声が、耳に残っていた。
吉岡さんは、夫の帰りを待ち続けている。
でも、夫は永遠に帰ってこない。
それは、あまりにも切ない。
でも、吉岡さんは忘れることができる。
一瞬の悲しみを感じても、すぐに忘れる。
それは、救いなのかもしれない。
私は、目を閉じた。
坂井さんの顔が浮かんできた。
あなたは、裏切り者だ。
その言葉が、今でも胸に刺さっている。
坂井さんは、私を信頼していた。
でも、私は何もしなかった。
坂井さんの気持ちを、家族に伝えなかった。
それは、医療者としての倫理を守ったからだ。
そう、自分に言い聞かせてきた。
でも、本当はそうじゃない。
私は、ただ逃げただけだ。
坂井さんに向き合うことから。
家族に伝える責任から。
そして、八年間逃げ続けてきた。
でも、もう逃げられないのかもしれない。
宮下さんの言葉が、頭の中で繰り返される。
あなたは、逃げている人の顔をしている。
その言葉が、私の中で何かを動かしていた。
私は、いつまで逃げ続けるのだろう。
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