第7話 忘却という救済
第7話 忘却という救済
田中さんの家を出て、次の訪問先に向かった。
午後は、吉岡睦子さんの訪問だ。
車を走らせながら、私は田中さんの涙を思い出していた。
七十年以上抱えてきた秘密。
それは、どれほど重かったのだろう。
でも、田中さんは今も生きている。
その秘密を抱えたまま。
人は、秘密とどう向き合えばいいのだろう。
私には、分からなかった。
吉岡さんのマンションに到着し、インターホンを押した。
ヘルパーが出迎えてくれた。
「お疲れ様です」
「お疲れ様です。今日の様子はどうですか?」
「今日は、わりと落ち着いていますよ」
ヘルパーは、穏やかに笑った。
私はリビングに入った。
吉岡さんは、ソファに座ってテレビを見ていた。
「こんにちは、吉岡さん」
私が声をかけると、吉岡さんはゆっくりとこちらを向いた。
「あら、どなた?」
今日は、私のことを認識していないようだ。
「井上です。リハビリの」
「ああ、井上さん。いらっしゃい」
吉岡さんは、穏やかに笑った。
私は、吉岡さんの隣に座った。
「今日は、足のリハビリをしましょうね」
「ええ、お願いします」
私は、吉岡さんの足を支え、ゆっくりと動かしていった。
リハビリを続けながら、私は吉岡さんを観察していた。
吉岡さんは、時折窓の外を見ている。
その目は、何かを探しているようだった。
「吉岡さん、何を見ているんですか?」
私が尋ねると、吉岡さんは小さく笑った。
「健三が、帰ってくるかなって」
「そうですか」
「健三は、優しい人なの」
吉岡さんの声は、穏やかだった。
「でもね、最近疲れているみたいで」
「私の世話が、大変なのかもしれない」
吉岡さんは、少し悲しそうな顔をした。
「だから、私も頑張らないと」
その言葉に、私は胸が痛んだ。
吉岡さんの夫は、五年前に亡くなっている。
でも、吉岡さんはそれを忘れている。
そして、今も夫の帰りを待っている。
認知症は、残酷だ。
でも、同時に優しくもある。
吉岡さんは、夫の死を忘れている。
だから、悲しむこともない。
それは、ある意味で救いなのかもしれない。
リハビリを続ける。
次は、立ち上がりの練習だ。
吉岡さんは私の手を借りて、ゆっくりと立ち上がった。
そして、リビングを歩く。
一歩、一歩。
ゆっくりと、確実に。
吉岡さんの足取りは、しっかりしている。
身体機能は、まだ保たれている。
リビングを往復して、またソファに戻る。
「お疲れ様でした」
「ありがとう」
吉岡さんは、穏やかに笑った。
私はカバンを片付け始めた。
その時、吉岡さんが突然話し始めた。
「健三はね、優しい人だったの」
過去形で話している。
私は、手を止めて吉岡さんを見た。
「いつも、私のことを気にかけてくれて」
「でも、私が病気になってから、疲れていたわ」
吉岡さんの声は、静かだった。
「私の世話が、大変だったと思う」
「健三は、何も言わなかったけど」
「でも、顔を見れば分かったわ」
吉岡さんは、窓の外を見た。
「あの日、健三は笑っていた」
「でも、その笑顔は、とても悲しそうだった」
その言葉に、私は息を呑んだ。
前にも、同じことを言っていた。
「吉岡さん、その日のこと、覚えているんですか?」
私が尋ねると、吉岡さんは私を見た。
「あの日?」
「ええ。ご主人が亡くなった日」
吉岡さんは、少し考えるような顔をした。
「健三は、転んだの」
「ベランダから」
吉岡さんの声は、淡々としていた。
「でも、転んだんじゃないかもしれない」
その言葉に、私は凍りついた。
「吉岡さん、それは」
私が言いかけると、吉岡さんは首を横に振った。
「分からないの」
「本当に転んだのか」
「それとも」
吉岡さんは、言葉を濁した。
「でも、健三は笑っていた」
「最後に、私を見て、笑っていた」
吉岡さんの目から、涙が流れ落ちた。
「私、その笑顔を忘れられないの」
私は、何も言えなかった。
吉岡さんの夫は、転落事故で亡くなったと聞いている。
でも、今の吉岡さんの言葉は。
事故ではなく。
自ら。
「吉岡さん」
私が声をかけると、吉岡さんは私を見た。
「はい」
「その日のこと、誰かに話したことはありますか?」
吉岡さんは、首を横に振った。
「誰にも話していないわ」
「話せないもの」
吉岡さんは、また涙を流した。
「だって、私のせいだから」
「私が病気にならなければ」
「健三は、あんなことしなかった」
吉岡さんは、顔を覆った。
私は、吉岡さんの隣に座り、手を握った。
「吉岡さん、あなたのせいじゃありません」
私は、そう言った。
でも、吉岡さんは首を横に振った。
「私のせいよ」
「私が、健三を疲れさせた」
「私が」
吉岡さんの声は、震えていた。
私は、吉岡さんを抱きしめた。
吉岡さんは、私の胸で泣いていた。
しばらくして、吉岡さんは泣き止んだ。
そして、顔を上げた。
「あら、あなた誰だっけ?」
吉岡さんは、不思議そうに私を見た。
また、記憶が途切れたようだ。
「井上です。リハビリの」
「そう。ありがとう」
吉岡さんは、穏やかに笑った。
さっきまでの涙も、苦しみも、すべて忘れている。
それが、認知症だった。
私は、静かに立ち上がった。
「では、また金曜日に来ますね」
「ええ。お願いね」
吉岡さんは、穏やかに笑った。
私は、ヘルパーに挨拶をして、家を出た。
車に乗り込み、エンジンをかけた。
吉岡さんの言葉が、頭の中で繰り返される。
健三は笑っていた。
でも、その笑顔は、とても悲しそうだった。
転んだんじゃないかもしれない。
吉岡さんの夫は、妻の介護に疲れていた。
そして、ベランダから。
でも、それは本当なのだろうか。
吉岡さんの記憶は、曖昧だ。
認知症によって、現実と想像が混ざり合っている。
真実は、分からない。
でも、吉岡さんはその記憶を抱えている。
そして、忘れることで救われている。
記憶が途切れることで、苦しみも消える。
それは、残酷なのか。
それとも、優しいのか。
私には、分からなかった。
でも、一つだけ分かることがあった。
吉岡さんは、秘密を抱えている。
でも、それを忘れることができる。
田中さんは、秘密を抱えている。
でも、忘れることはできない。
宮下さんは、秘密を抱えている。
そして、それを話すべきか悩んでいる。
みんな、秘密と向き合っている。
そして、私も。
私は、坂井さんの秘密を抱えている。
でも、それを誰にも話していない。
私は、八年間その秘密を抱えたまま、生きてきた。
でも、それでよかったのだろうか。
私は、アクセルを踏んだ。
家に帰る。
一人の部屋に戻る。
そして、また明日。
同じ道を走り、同じ家を訪れる。
それが、私の日常だった。
でも、何かが変わり始めていた。
田中さんの涙。
宮下さんの苦悩。
吉岡さんの忘却。
それらが、私の中で何かを動かしていた。
私は、もう逃げ続けることはできないのかもしれない。
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