第6話 過去の影

その夜、私は自分のアパートに戻り、ベッドに横になった。

 

でも、眠れなかった。

 

宮下さんの言葉が、頭の中で繰り返される。

 

あなたは、逃げている人の顔をしている。

 

その言葉が、過去の記憶を呼び起こしていた。

 

八年前。

私は、大学病院のリハビリテーション科に勤めていた。

 

当時二十八歳。

理学療法士として、毎日多くの患者を担当していた。

 

病院は忙しかった。

朝から晩まで、患者が途切れることはなかった。

 

リハビリ計画を立て、訓練を行い、記録を書く。

その繰り返しだった。

 

患者は、症例として扱われた。

脳卒中後の片麻痺、大腿骨頸部骨折、腰椎圧迫骨折。

 

一人一人の顔を覚える暇もなかった。

 

でも、ある患者だけは、忘れられなかった。

 

坂井修一さん。

四十二歳。

末期がん。

 

坂井さんは、明るい人だった。

いつも笑顔で、冗談を言っていた。

 

妻と、二人の子どもがいた。

小学生の息子と娘。

 

坂井さんは、家族のために生きようとしていた。

 

リハビリも、真面目にこなしていた。

少しでも体力を維持しようと、必死だった。

 

私は、坂井さんを担当していた。

 

最初の頃は、順調だった。

坂井さんは回復を信じていた。

 

でも、ある日、坂井さんの様子が変わった。

 

リハビリ中、坂井さんは急に黙り込んだ。

いつもの笑顔が、消えていた。

 

「井上さん」

 

坂井さんが、私を呼んだ。

 

「はい」

「少し、話せますか?」

 

私は、時計を見た。

次の患者の予定が迫っていた。

 

「今日は、少し忙しいんです」

「そうですか」

 

坂井さんは、小さく笑った。

 

「じゃあ、また今度でいいです」

 

私は、その時何も感じなかった。

ただ、次の患者のことを考えていた。

 

でも、数日後、坂井さんは再び私を呼び止めた。

 

「井上さん、今日は時間がありますか?」

 

その日は、少し時間があった。

 

「はい、大丈夫です」

「ありがとうございます」

 

坂井さんは、私を病室の隅に連れて行った。

 

そして、小さな声で話し始めた。

 

「実は、医者から聞いたんです」

「もう、治らないって」

 

その言葉に、私は何も言えなかった。

 

「余命は、半年くらいだって」

 

坂井さんの声は、震えていた。

 

「でも、家族には言えないんです」

「妻も、子どもも、まだ希望を持っているから」

 

坂井さんは、顔を覆った。

 

「井上さん、本当は、もう延命治療を続けたくないんです」

「苦しいんです」

「でも、家族が望むから、やめられない」

 

坂井さんは、私を見た。

 

その目には、深い絶望が滲んでいた。

 

「井上さん、お願いがあります」

「家族に、伝えてくれませんか?」

「私の気持ちを」

 

その言葉に、私は戸惑った。

 

坂井さんの気持ちを、家族に伝える。

それは、医療者としてやるべきことなのだろうか。

 

でも、私は答えられなかった。

 

「それは、坂井さん自身が伝えるべきだと思います」

 

私は、そう言った。

 

坂井さんは、小さく笑った。

 

「そうですよね」

「自分で言わなきゃいけませんよね」

「ごめんなさい」

 

坂井さんは、謝った。

 

私は、その場を離れた。

 

でも、心のどこかで、違和感があった。

 

坂井さんの頼みを、断ってよかったのだろうか。

 

私は、自分に言い聞かせた。

 

患者の秘密を勝手に家族に伝えるわけにはいかない。

それは、医療者の倫理に反する。

坂井さん自身が決めることだ。

 

でも、坂井さんは、自分では言えなかった。

 

そして、数週間後。

 

坂井さんの容態が急変した。

 

家族は、新しい治療法を選択した。

高額な薬を使い、延命を図った。

 

でも、坂井さんは苦しんでいた。

 

副作用で、身体中が痛み、吐き気が止まらなかった。

 

私は、リハビリのために病室を訪れた。

 

坂井さんは、ベッドに横たわっていた。

顔色は悪く、目の下には深い隈ができていた。

 

「井上さん」

 

坂井さんが、私を呼んだ。

 

「はい」

「あなたは、裏切り者だ」

 

その言葉が、胸に突き刺さった。

 

「私は、あなたを信頼していた」

「でも、あなたは何もしてくれなかった」

 

坂井さんの声は、弱々しかった。

 

「私は、ただ家族に伝えてほしかっただけなんです」

「私の気持ちを」

「でも、あなたは何もしなかった」

 

坂井さんは、目を閉じた。

 

「もう、いいです」

「帰ってください」

 

私は、何も言えなかった。

 

ただ、病室を出た。

 

そして、数日後。

 

坂井さんは、亡くなった。

 

苦しみながら、家族に囲まれて。

 

でも、坂井さんの本当の気持ちは、誰にも伝わらなかった。

 

私は、坂井さんの葬儀には参列しなかった。

 

参列する資格がないと思った。

 

そして、私は病院を辞めた。

 

坂井さんの言葉が、忘れられなかった。

 

あなたは、裏切り者だ。

 

その言葉が、今でも胸に残っている。

 

私は、坂井さんを裏切った。

 

患者の秘密を守ったつもりだった。

でも、本当は、選択から逃げただけだった。

 

坂井さんに向き合うことから、逃げた。

家族に伝える責任から、逃げた。

 

そして、私は訪問リハビリという仕事を選んだ。

 

他人の家に入り、身体に触れ、そして出ていく。

深く関わらず、責任も負わず。

 

それが、私の逃げ場だった。

 

でも、宮下さんに言われた。

 

あなたは、逃げている人の顔をしている。

 

その言葉が、過去の記憶を呼び起こした。

 

私は、ベッドから起き上がった。

 

窓の外を見ると、夜の街が広がっていた。

 

私は、八年間逃げ続けてきた。

 

でも、いつまで逃げ続けるのだろう。

 

その答えは、分からなかった。

 

翌朝、私は六時に目を覚ました。

 

顔を洗い、着替え、簡単な朝食を取る。

 

今日は火曜日。

田中さんの訪問日だ。

 

私は車に乗り込み、田中さんの家に向かった。

 

午前十時。

田中さんの家の前に到着する。

 

キーボックスに手を伸ばし、暗証番号を入力する。

2784。

蓋が開き、鍵を取り出す。

 

玄関を開けると、いつもと同じ畳の匂いがした。

 

「おはようございます」

 

声をかけると、奥から返事が返ってくる。

 

「ああ、井上さん。今日もありがとう」

 

私は靴を脱ぎ、廊下を歩いて居間に入った。

 

田中さんは、座椅子に座っていた。

でも、今日は少し元気がないように見えた。

 

「田中さん、大丈夫ですか?」

「ええ、大丈夫よ。ちょっと疲れただけ」

 

田中さんは、小さく笑った。

 

私は血圧計を取り出し、田中さんの血圧を測った。

上が百四十五、下が九十。

少し高い。

 

「血圧が少し高いですね」

「そう。気をつけるわ」

 

私は、リハビリを始めた。

 

でも、田中さんの様子が気になった。

 

いつもより、言葉が少ない。

 

「田中さん、何か心配なことがあるんですか?」

 

私が尋ねると、田中さんは少し驚いたような顔をした。

 

「井上さんは、優しいのね」

「いつも、気にかけてくれて」

 

田中さんは、窓の外を見た。

 

「実はね、昨日夢を見たの」

「夢?」

「ええ。あの人の夢」

 

あの人、というのは、田中さんが裏切った隣人のことだろう。

 

「その人が、夢に出てきたの」

「笑っていたわ」

 

田中さんの声は、震えていた。

 

「でも、その笑顔が、とても悲しそうだった」

 

田中さんは、涙を流した。

 

「私、どうすればよかったのかしら」

 

その言葉に、私は何も答えられなかった。

 

ただ、田中さんの手を握った。

 

田中さんは、小さく笑った。

 

「ありがとう、井上さん」

 

その言葉が、胸に響いた。

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