第5話 隠された真実
月曜日の午前、私は再び宮下さんの家を訪れた。
インターホンを押すと、いつものように妻が出迎えてくれた。
でも、今日は表情が少し硬かった。
「いらっしゃい。今日もお願いします」
「よろしくお願いします」
私は靴を脱ぎ、リビングに向かった。
宮下さんは、車椅子に座って窓の外を見ていた。
いつもと同じ姿勢だが、今日は背中が少し丸くなっているように見えた。
「こんにちは」
私が声をかけると、宮下さんはゆっくりとこちらを向いた。
「ああ、井上さん」
宮下さんの声は、いつもより小さかった。
「今日の調子はいかがですか?」
「まあ、変わらないですよ」
宮下さんは、そう言って小さく笑った。
でも、その笑顔は疲れているように見えた。
私は血圧計を取り出し、宮下さんの血圧を測った。
上が百四十、下が九十。
前回より、少し高い。
「血圧が少し高いですね。無理をしていませんか?」
「いえ、特に何も」
宮下さんは、視線を逸らした。
私は、宮下さんの関節可動域を確認し始めた。
でも、今日は宮下さんの反応が鈍い。
肩を動かしても、いつもより硬い。
手首も、可動域が狭くなっている。
「少し、身体が硬くなっていますね」
「そうですか」
宮下さんは、淡々と答えた。
私は、リハビリを続けた。
でも、宮下さんの様子が気になった。
いつもなら、リハビリ中に会話をするのだが、今日は宮下さんから話しかけてこない。
「宮下さん」
「はい」
「何か、心配なことがあるんですか?」
私が尋ねると、宮下さんは少し驚いたような顔をした。
「いえ、別に」
「そうですか」
私は、それ以上聞かなかった。
でも、宮下さんは何かを抱えている。
それは、明らかだった。
リハビリを続ける。
次は、立ち上がりの練習だ。
宮下さんは車椅子から立ち上がろうとしたが、足に力が入らないようだった。
「大丈夫ですか?」
「ええ、大丈夫です」
宮下さんは、私の腕を掴んで立ち上がった。
でも、バランスが取れず、よろけた。
私は、すぐに宮下さんを支えた。
「無理しないでください」
「すみません」
宮下さんは、小さく謝った。
その声は、いつもより弱々しかった。
私は、宮下さんを車椅子に座らせた。
「今日は、立位訓練は中止にしましょう」
「……そうですか」
宮下さんは、俯いた。
その姿が、とても寂しそうに見えた。
私は、何も言わなかった。
ただ、宮下さんの隣に座った。
しばらく、沈黙が続いた。
そして、宮下さんが口を開いた。
「井上さん」
「はい」
「あなたは、なぜこの仕事を選んだんですか?」
その質問に、私は少し驚いた。
前にも、同じことを聞かれたことがあった。
でも、今回は違う。
宮下さんの声には、何かを確かめようとするような響きがあった。
「……患者さんの生活を支えたいと思って」
私は、用意していた答えを口にした。
でも、宮下さんは首を横に振った。
「嘘ですね」
その言葉に、私は息を呑んだ。
「嘘?」
「ええ。あなたの目を見れば分かります」
宮下さんは、私の顔をじっと見た。
「あなたは、逃げている人の顔をしている」
その言葉が、胸に刺さった。
「何から逃げているかは知りません」
「でも、この仕事を逃げ場にしている」
宮下さんの声は、静かだが、鋭かった。
私は、何も答えられなかった。
宮下さんの言葉は、図星だった。
私は、逃げている。
過去から、責任から、自分自身から。
訪問リハビリという仕事は、私にとって逃げ場だった。
他人の家に入り、身体に触れ、そして出ていく。
深く関わらず、責任も負わず。
それが、私にとって楽だった。
「井上さん」
宮下さんが、また声をかけた。
「はい」
「私も、逃げているんです」
その言葉に、私は顔を上げた。
宮下さんは、窓の外を見ていた。
「私は、家族に嘘をついている」
宮下さんの声は、震えていた。
「病気のことを、隠している」
私は、黙って聞いていた。
「医者からは、余命二年程度と言われています」
その言葉に、私は息を呑んだ。
「でも、家族には言っていません」
「まだ時間がある、と嘘をついている」
宮下さんは、顔を覆った。
「娘は、今年受験なんです」
「妻は、パートで働き詰めです」
「今、絶望を与えたくない」
宮下さんの声は、かすれていた。
「でも、このままでいいのか分からない」
「嘘をつき続けることが、本当に正しいのか」
宮下さんは、私を見た。
その目には、深い苦悩が滲んでいた。
「井上さん、あなたなら、どうしますか?」
その問いに、私は答えられなかった。
どうすればいいのか、分からなかった。
正直に話すべきなのか。
それとも、嘘をつき続けるべきなのか。
どちらが正しいのか、分からなかった。
「……分かりません」
私は、正直に答えた。
「私には、分かりません」
宮下さんは、小さく笑った。
「そうですよね」
「誰にも、分からないですよね」
宮下さんは、また窓の外を見た。
「私はね、ずっと家族を守ってきたつもりだった」
「でも、今は分からない」
「守っているのか、ただ逃げているだけなのか」
その言葉が、私の胸に響いた。
守ること。
逃げること。
その境界は、どこにあるのだろう。
私は、何も言えなかった。
ただ、宮下さんの隣に座っていた。
しばらくして、宮下さんが口を開いた。
「井上さん、すみません」
「いえ」
「変なことを言ってしまって」
「大丈夫です」
私は、そう答えた。
でも、心の中では、何かが揺れていた。
宮下さんの苦悩が、私の中にある何かを刺激していた。
私はカバンを片付け、帰る準備を始めた。
「では、また木曜日に来ますね」
「はい。お願いします」
宮下さんは、穏やかに笑った。
でも、その笑顔は、いつもより寂しそうに見えた。
玄関で靴を履いていると、宮下さんの妻が声をかけてきた。
「井上さん、主人の様子、どうでしたか?」
妻は、心配そうな顔をしていた。
私は、少し迷った。
宮下さんの秘密を、妻に伝えるべきなのだろうか。
でも、それは宮下さん自身が決めることだ。
私が勝手に話すべきではない。
「体調は、少し疲れているようです」
「そうですか」
妻は、少し安堵したような表情を見せた。
「ありがとうございます。これからもよろしくお願いします」
「はい」
私は、そう答えた。
でも、心の中では、何かが引っかかっていた。
私は車に乗り込み、エンジンをかけた。
宮下さんの言葉が、頭の中で繰り返される。
あなたは、逃げている人の顔をしている。
その言葉が、胸に突き刺さっていた。
私は、逃げている。
宮下さんの言う通りだ。
でも、何から逃げているのか。
私は、その答えを知っていた。
八年前の、あの日から。
私は、ずっと逃げていた。
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