写真立てが伏せられた部屋
第4話 観察する人
宮下浩二さんの家を訪問するのは、今日で五回目だった。
インターホンを押すと、すぐに応答があった。
妻が玄関を開け、いつもの穏やかな笑顔で私を迎えた。
「いらっしゃい。今日もお願いします」
「よろしくお願いします」
私は靴を脱ぎ、リビングに向かった。
宮下さんは、車椅子に座って窓の外を見ていた。
庭の木々が、風に揺れている。
「こんにちは」
私が声をかけると、宮下さんはゆっくりとこちらを向いた。
「ああ、井上さん。今日も来てくれたんですね」
宮下さんは、穏やかに笑った。
でも、その笑顔の奥に、何かを隠しているような気配があった。
「今日の調子はいかがですか?」
「まあ、いつも通りです。特に変わったことはありません」
宮下さんは、そう言って右手を軽く持ち上げた。
指先が、わずかに震えている。
前回よりも、震えが大きくなっているような気がした。
私は血圧計を取り出し、宮下さんの血圧を測った。
上が百三十五、下が八十五。
少し高めだが、許容範囲内だ。
「血圧は、少し高めですね」
「そうですか。気をつけます」
私は、宮下さんの関節可動域を確認し始めた。
肩、肘、手首。
一つ一つ、ゆっくりと動かしていく。
宮下さんは、静かに私の手に従っている。
リハビリを続けながら、私は宮下さんを観察していた。
宮下さんは、いつも背筋を伸ばして座っている。
几帳面で、身なりもきちんとしている。
でも、最近は少し疲れた様子が見える。
目の下に、薄く隈ができている。
顔色も、少し悪い。
「宮下さん、最近よく眠れていますか?」
私が尋ねると、宮下さんは少し驚いたような顔をした。
「ああ、まあ、普通に眠れていますよ」
「そうですか」
宮下さんは、少し視線を逸らした。
嘘をついている。
私は、そう感じた。
でも、深く追求することはしなかった。
それが、この仕事のルールだ。
リハビリを続ける。
次は、立ち上がりの練習だ。
宮下さんは車椅子から立ち上がり、私の腕を掴んで歩き始めた。
リビングから廊下へ。
一歩、一歩。
宮下さんの足取りは、前回よりも不安定になっている。
左足が少し内側に入り、バランスを取るのが難しそうだ。
「無理しないでくださいね」
「大丈夫です」
宮下さんは、そう言って前を向いた。
廊下を歩きながら、私は宮下さんの背中を見ていた。
この人は、何かを我慢している。
何かを、隠している。
でも、それが何なのか、私には分からなかった。
廊下を往復して、また車椅子に戻る。
宮下さんは、少し息を切らせている。
「お疲れ様でした」
「ありがとうございます」
宮下さんは、そう言って水を飲んだ。
私はカバンを片付け、帰る準備を始めた。
その時、また棚の上の写真立てが目に入った。
やはり、伏せられている。
なぜ、写真立てを伏せているのだろう。
家族の写真なら、普通は飾っておくはずだ。
でも、宮下さんは伏せている。
見たくない理由があるのだろうか。
私は、それ以上考えないようにした。
「では、また月曜日に来ますね」
「はい。お願いします」
宮下さんは、穏やかに笑って私を見送った。
でも、その笑顔は、どこか寂しそうに見えた。
玄関で靴を履いていると、宮下さんの妻が声をかけてきた。
「井上さん」
「はい」
「主人の様子、どうですか?」
妻は、少し心配そうな顔をしていた。
「体調は、安定していると思います」
「そうですか」
妻は、少しほっとしたような表情を見せた。
でも、すぐに真剣な顔になった。
「実は、最近主人が夜中に起きていることが多いんです」
「夜中に?」
「ええ。リビングで一人で座っていることがあって」
妻は、困ったような顔をした。
「何か考え事をしているみたいなんですけど、聞いても何も言わないんです」
私は、少し考えた。
「病気のことで、不安になっているのかもしれませんね」
「そうかもしれません」
妻は、小さくため息をついた。
「主人は、あまり弱音を吐かない人なんです」
「だから、何を考えているのか分からなくて」
私は、頷いた。
「もし何か気づいたことがあれば、教えてください」
「分かりました」
私は、そう答えた。
でも、何を伝えればいいのか、分からなかった。
宮下さんが何を考えているのか。
何を隠しているのか。
私には、分からなかった。
私は車に乗り込み、エンジンをかけた。
宮下さんの顔が、頭に浮かんだ。
穏やかに笑う顔。
でも、その奥に隠された、何か。
それが、気になった。
でも、私は深入りするべきではない。
それが、この仕事のルールだ。
私は、アクセルを踏んだ。
次の訪問先に向かう。
午後の訪問先は、吉岡睦子さんの家だった。
インターホンを押すと、ヘルパーが出迎えてくれた。
「お疲れ様です」
「お疲れ様です。今日の様子はどうですか?」
「今日は、少し混乱していますね」
ヘルパーは、少し困ったような顔をした。
「朝から、ずっと夫さんの名前を呼んでいて」
「そうですか」
私は、リビングに入った。
吉岡さんは、ソファに座って窓の外を見ていた。
「こんにちは、吉岡さん」
私が声をかけると、吉岡さんはゆっくりとこちらを向いた。
「あら、健三さん」
また、夫の名前で呼ばれた。
「井上です。リハビリの」
「……井上さん?」
吉岡さんは、少し首を傾げた。
「ごめんなさい。よく分からなくて」
「大丈夫ですよ」
私は、吉岡さんの隣に座った。
「今日は、足のリハビリをしましょうね」
「ええ、お願いします」
私は、吉岡さんの足を支え、ゆっくりと動かしていった。
リハビリを続けながら、私は吉岡さんの様子を観察していた。
吉岡さんは、時折窓の外を見ている。
その目は、何かを探しているようだった。
「吉岡さん、何を見ているんですか?」
私が尋ねると、吉岡さんは小さく笑った。
「健三が、帰ってくるかなって」
「……そうですか」
「健三はね、優しい人なの」
「いつも、私のことを気にかけてくれて」
吉岡さんの声は、穏やかだった。
「でも、最近は疲れているみたいで」
「私の世話が、大変なのかもしれない」
その言葉に、私は少し胸が痛んだ。
吉岡さんの夫は、五年前に亡くなっている。
でも、吉岡さんの中では、夫はまだ生きている。
そして、吉岡さんは夫の疲れを心配している。
認知症は、残酷だ。
現実と記憶が混ざり合い、本人も周囲も苦しむ。
でも、時には優しくもある。
吉岡さんは、夫の死を忘れている。
だから、悲しむこともない。
それは、救いなのだろうか。
私には、分からなかった。
リハビリを終え、吉岡さんをソファに座らせた。
「お疲れ様でした」
「ありがとう」
吉岡さんは、穏やかに笑った。
私はカバンを片付け、帰る準備を始めた。
その時、吉岡さんが突然話し始めた。
「健三はね、最後に笑っていたの」
私は、動きを止めた。
「最後?」
「ええ。あの日、健三は笑っていた」
吉岡さんの声は、静かだった。
「でも、その笑顔は、悲しそうだった」
吉岡さんは、窓の外を見た。
「私、あの笑顔を忘れられないの」
その言葉に、私は息を呑んだ。
吉岡さんの夫は、転落事故で亡くなったと聞いている。
でも、今の吉岡さんの言葉は、まるで。
「吉岡さん」
「はい」
「その日のこと、覚えているんですか?」
吉岡さんは、少し首を傾げた。
「何の日?」
「……いえ、何でもありません」
吉岡さんは、また記憶が途切れたようだった。
私は、何も言わなかった。
ただ、静かに立ち上がった。
「では、また月曜日に来ますね」
「ええ。お願いね」
吉岡さんは、穏やかに笑った。
私は、ヘルパーに挨拶をして、家を出た。
車に乗り込み、エンジンをかけた。
吉岡さんの言葉が、頭の中で繰り返される。
健三は、最後に笑っていた。
でも、その笑顔は、悲しそうだった。
それは、どういう意味なのだろう。
私は、考えないようにした。
それが、この仕事のルールだ。
でも、心のどこかで、気になっていた。
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