第3話 信頼の重さ
その夜、私は自分のアパートに戻った。
一人暮らしの部屋は、狭くて、静かだった。
玄関を入ると、誰もいない空間が広がっている。
私はカバンを置き、冷蔵庫を開けた。
中には、コンビニで買った弁当と、ペットボトルのお茶が入っている。
弁当を電子レンジで温め、テーブルに座った。
テレビをつける。
ニュース番組が流れているが、内容は頭に入ってこない。
箸を持ち、弁当を食べる。
味はよく分からなかった。
食べ終わると、すぐに片付けた。
そして、ソファに座り、天井を見上げた。
田中さんの言葉が、まだ頭の中にあった。
私は一度、人を裏切ったことがあるの。
田中さんは、何を裏切ったのだろう。
誰を裏切ったのだろう。
でも、私には聞く権利がない。
田中さんが話したくないことを、無理に聞き出すべきではない。
それが、この仕事のルールだ。
私は目を閉じた。
でも、田中さんの顔が浮かんできた。
窓の外を見つめる、あの横顔。
穏やかだが、どこか遠くを見ているような目。
そして、宮下さんの伏せられた写真立て。
吉岡さんの途切れる記憶。
みんな、何かを抱えている。
私は、それを知っている。
でも、触れない。
それが、私の仕事だった。
私は、ソファから立ち上がり、窓の外を見た。
夜の街は、静かだった。
遠くに、コンビニの明かりが見える。
私は、この街で八年間、訪問リハビリの仕事をしている。
八年前、私は病院を辞めた。
理由は、一つだった。
私は、患者を裏切ったから。
その記憶が、今でも胸に残っている。
私は窓から目を逸らし、ベッドに向かった。
考えても、仕方がない。
過去は変えられない。
私にできるのは、今日の仕事を続けることだけだ。
ベッドに横になり、目を閉じた。
でも、眠れなかった。
翌朝、私は六時に目を覚ました。
いつもと同じ時間だ。
顔を洗い、着替え、簡単な朝食を取る。
今日は金曜日。
田中さんの訪問日だ。
私は車に乗り込み、田中さんの家に向かった。
午前十時。
田中さんの家の前に到着する。
キーボックスに手を伸ばし、暗証番号を入力する。
2784。
蓋が開き、鍵を取り出す。
玄関を開けると、いつもと同じ畳の匂いがした。
「おはようございます」
声をかけると、奥から返事が返ってくる。
「ああ、井上さん。今日もありがとう」
私は靴を脱ぎ、廊下を歩いて居間に入った。
田中さんは、いつもと同じように座椅子に座っていた。
でも、今日は少し様子が違った。
顔色が悪い。
目の下に、隈ができている。
「田中さん、大丈夫ですか?」
私は心配になって、田中さんに近づいた。
「ええ、大丈夫よ。ちょっと眠れなかっただけ」
「眠れなかった?」
「ええ。昔のことを、考えてしまってね」
田中さんは、小さく笑った。
でも、その笑顔は、いつもより疲れているように見えた。
私は血圧計を取り出し、田中さんの血圧を測った。
上が百五十、下が九十。
いつもより、少し高い。
「血圧が少し高いですね。無理はしないでください」
「ありがとう。でも、大丈夫よ」
田中さんは、そう言って窓の外を見た。
私は、リハビリを始めた。
でも、田中さんの様子が気になった。
膝の曲げ伸ばしをしながら、私は田中さんに話しかけた。
「田中さん、何か心配なことがあるんですか?」
田中さんは、少し驚いたような顔をした。
そして、小さく笑った。
「井上さんは、優しいのね」
「いえ、そんなことは」
「でも、聞いてくれるのね」
田中さんは、私の顔を見た。
「井上さん、私はね、ずっと一人で抱えてきたの」
「……はい」
「誰にも話せないことを」
田中さんの声は、静かだった。
でも、その奥に、深い悲しみのようなものが滲んでいた。
「話さなくてもいいんですよ」
私は、そう言った。
「無理に話す必要はありません」
田中さんは、首を横に振った。
「いいえ。もう、話してもいいかもしれない」
そう言って、田中さんは窓の外を見た。
「私はね、戦争中に、人を裏切ったの」
その言葉に、私は息を呑んだ。
戦争。
田中さんは、八十六歳だ。
戦争を経験している世代だ。
「隣に住んでいた人がね、戦争に反対していたの」
田中さんは、ゆっくりと話し始めた。
「その人は、優しい人だった」
「家族思いで、いつも笑っていた」
「でも、戦争には反対していた」
田中さんの声は、震えていた。
「ある日、その人が家で話しているのを聞いてしまったの」
「戦争は間違っている、って」
「こんな戦争は、負けると」
田中さんは、一度言葉を切った。
「私は、怖くなった」
「そんなことを言ったら、捕まる」
「家族も、危ない目に遭う」
私は、黙って聞いていた。
「だから、私は密告したの」
その言葉に、私の胸が詰まった。
「特高警察に、その人のことを話した」
「そうしたら、その人は捕まった」
「家族も、村八分にされた」
田中さんの目から、涙が流れ落ちた。
「戦争が終わって、その人は帰ってきた」
「でも、息子さんが自殺したの」
「戦争で傷ついて、生きる希望を失って」
田中さんは、顔を覆った。
「私のせいなの」
「私が密告しなければ、あの家族は幸せだったかもしれない」
「でも、私は自分が怖くて、裏切った」
私は、何も言えなかった。
田中さんの痛みが、あまりにも深すぎて。
「ずっと、誰にも話せなかった」
「娘にも、孫にも」
「誰にも」
田中さんは、涙を拭いた。
「でもね、井上さん」
「あなたには、話してもいいかなって思ったの」
私は、田中さんの手を握った。
「田中さん」
「はい」
「話してくださって、ありがとうございます」
田中さんは、小さく笑った。
「ありがとう、なんて言われると思わなかった」
「怒られるかと思った」
私は、首を横に振った。
「怒りません」
「田中さんが抱えてきたものは、とても重かったと思います」
田中さんは、また涙を流した。
「ありがとう」
その言葉が、小さく聞こえた。
私は、田中さんの手を握ったまま、しばらく黙っていた。
この仕事のルールは、他人の秘密に触れないことだ。
でも、今は違った。
田中さんは、私に秘密を話してくれた。
それは、信頼の証だった。
私は、その信頼に応えなければならない。
でも、どう応えればいいのか、分からなかった。
私にできるのは、ただ、ここにいることだけだった。
リハビリを終え、私は帰る準備を始めた。
田中さんは、少し疲れた様子だったが、穏やかに笑っていた。
「井上さん、また来てくださいね」
「はい、必ず」
私は、玄関を出た。
鍵をキーボックスに戻し、蓋を閉める。
車に乗り込み、エンジンをかけた。
田中さんの言葉が、胸に残っていた。
私はね、戦争中に、人を裏切ったの。
裏切り。
その言葉の重さを、私は今、初めて理解した。
田中さんは、七十年以上、その秘密を抱えて生きてきた。
誰にも話せずに。
そして、私に話してくれた。
それは、どれほどの勇気が必要だったのだろう。
私は、アクセルを踏んだ。
次の訪問先に向かう。
でも、田中さんの涙が、忘れられなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます