第2話 裏切りという言葉

次の訪問先は、宮下浩二さんの家だった。

 

田中さんの家から車で十五分ほどの住宅街にある、二階建ての一軒家だ。

玄関先には小さな花壇があり、季節の花が丁寧に植えられている。

 

宮下さんは、五十二歳。

進行性の神経疾患を患っている。

発症から三年が経ち、今は歩行が困難になっている。

 

私がこの家を訪問し始めたのは、一ヶ月前だ。

それまでは病院でのリハビリを受けていたが、通院が難しくなり、訪問リハビリに切り替わった。

 

車を停め、インターホンを押す。

すぐに応答があった。

 

「はい」

「訪問リハビリの井上です」

「ああ、どうぞ」

 

玄関のドアが開く。

出迎えたのは、宮下さんの妻だった。

四十代後半くらいだろうか。落ち着いた雰囲気の女性で、いつも穏やかに笑っている。

 

「いらっしゃい。今日もお願いします」

「よろしくお願いします」

 

私は靴を脱ぎ、家に上がった。

廊下を進むと、リビングに宮下さんが車椅子に座って待っていた。

 

「こんにちは」

「ああ、井上さん。今日も来てくれたんですね」

 

宮下さんは、穏やかに笑った。

背筋を伸ばし、きちんとした姿勢で座っている。

元建築士だったという宮下さんは、几帳面で、いつも身なりを整えている。

 

「今日の調子はいかがですか?」

「まあ、変わらないですね。右手が少し動かしにくいくらいで」

 

宮下さんは、そう言って右手を軽く持ち上げた。

指先が、わずかに震えている。

 

私は宮下さんの隣に椅子を置き、座った。

 

「では、まず血圧を測りましょう」

「お願いします」

 

血圧計を巻き、測定する。

上が百三十、下が八十。問題ない数値だ。

 

「血圧は安定していますね」

「そうですか。よかった」

 

次に、関節の可動域を確認する。

肩、肘、手首。

一つ一つ、ゆっくりと動かしていく。

 

宮下さんは、静かに私の手に従っている。

時折、小さく息を吐くが、痛みを訴えることはない。

 

「右手首が、少し硬くなっていますね」

「ああ、最近、ちょっと動かしにくいんです」

「無理のない範囲で、毎日少しずつ動かすようにしてください」

「分かりました」

 

リハビリを続ける。

次は、立ち上がりの練習だ。

宮下さんは車椅子から立ち上がり、私の腕を掴んで歩く。

 

リビングから廊下へ。

一歩、一歩。

ゆっくりと、確実に。

 

宮下さんの歩行は、以前よりも不安定になっている。

足が少し内側に入り、バランスを取るのが難しそうだ。

 

「無理しないでくださいね」

「大丈夫です。まだ、歩けますから」

 

宮下さんは、そう言って前を向いた。

その表情には、諦めではなく、静かな決意のようなものがあった。

 

廊下を往復して、また車椅子に戻る。

宮下さんは、少し息を切らせている。

 

「お疲れ様でした」

「ありがとうございます。井上さんがいないと、もう歩けませんね」

「そんなことありませんよ。宮下さんは、ちゃんと歩けています」

 

私はそう言ったが、宮下さんは小さく笑った。

 

「でも、いつまで歩けるか分かりませんからね」

 

その言葉に、私は何も答えられなかった。

 

宮下さんの病気は、進行性だ。

時間が経てば、必ず悪化する。

それは、避けられない事実だった。

 

私はカバンを片付け、帰る準備を始めた。

その時、リビングの棚に置かれた写真立てが目に入った。

 

家族写真だろうか。

でも、写真立ては伏せられていた。

 

なぜ、伏せてあるのだろう。

 

私は、それ以上考えないようにした。

他人の家の中のことに、深入りするべきではない。

 

「また、木曜日に来ますね」

「はい。お願いします」

 

宮下さんは、穏やかに笑って私を見送った。

 

玄関で靴を履いていると、宮下さんの妻が声をかけてきた。

 

「井上さん、いつもありがとうございます」

「いえ、こちらこそ」

「主人、最近少し元気がないんです」

 

妻は、少し困ったような顔をした。

 

「病気のせいだと思うんですけど、何か気になることがあったら教えてください」

「分かりました」

 

私は、そう答えた。

でも、何を伝えればいいのか、分からなかった。

 

宮下さんが元気がないのは、病気のせいだけではないような気がした。

でも、それを確かめる術はない。

 

私は車に乗り込み、エンジンをかけた。

 

伏せられた写真立て。

宮下さんの静かな笑顔。

妻の困ったような表情。

 

それらが、頭の中で渦巻いている。

 

でも、私は考えないようにした。

それが、この仕事のルールだから。

 

私は、アクセルを踏んだ。

次の訪問先に向かう。

 

午後の訪問先は、吉岡睦子さんの家だった。

 

吉岡さんは、七十八歳。

アルツハイマー型認知症を患っている。

一人暮らしで、週に三回、ヘルパーと訪問看護が入っている。

私は、週に二回訪問している。

 

吉岡さんの家は、小さなマンションの一階にあった。

玄関前には、小さな植木鉢が並んでいる。

枯れかけた花が、風に揺れていた。

 

インターホンを押すと、中から声が聞こえた。

 

「はい」

「訪問リハビリの井上です」

「ああ、どうぞ」

 

ドアが開く。

出迎えたのは、ヘルパーの女性だった。

 

「お疲れ様です」

「お疲れ様です。今日の様子はどうですか?」

「今日は、比較的穏やかですよ。朝ごはんもちゃんと食べました」

「そうですか。よかった」

 

私は靴を脱ぎ、家に上がった。

リビングに入ると、吉岡さんがソファに座ってテレビを見ていた。

 

「こんにちは、吉岡さん」

 

私が声をかけると、吉岡さんはゆっくりとこちらを向いた。

 

「あら、健三さん」

 

健三さん、というのは、吉岡さんの亡くなった夫の名前だ。

吉岡さんは、時々私を夫と間違える。

 

「井上です。リハビリの」

「……そう。井上さん」

 

吉岡さんは、少し首を傾げた。

でも、すぐに笑顔になった。

 

「いらっしゃい。今日もありがとう」

「よろしくお願いします」

 

私は吉岡さんの隣に座り、カバンからタオルを取り出した。

 

「今日は、足のリハビリをしましょうね」

「ええ、お願いします」

 

吉岡さんは、穏やかに答えた。

 

私は吉岡さんの足を支え、ゆっくりと動かしていく。

足首、膝、股関節。

一つ一つ、丁寧に。

 

吉岡さんは、時折小さく息を吐きながら、私の手に身を委ねている。

 

「吉岡さん、最近調子はどうですか?」

「ええ、元気よ。健三も元気だし」

 

健三さんは、五年前に亡くなっている。

でも、吉岡さんの中では、夫はまだ生きている。

 

私は、何も言わなかった。

訂正する必要はない。

それが、この仕事のルールだ。

 

リハビリを続ける。

足の曲げ伸ばしを終え、次は立ち上がりの練習だ。

 

「では、立ってみましょうか」

「ええ」

 

吉岡さんは私の手を借りて、ゆっくりと立ち上がった。

そして、リビングを歩く。

 

一歩、一歩。

ゆっくりと、確実に。

 

吉岡さんの足取りは、しっかりしている。

認知症は進行しているが、身体機能はまだ保たれている。

 

リビングを往復して、またソファに戻る。

吉岡さんは、少し息を切らせている。

 

「お疲れ様でした」

「ありがとう」

 

吉岡さんは、穏やかに笑った。

 

私はカバンを片付け、帰る準備を始めた。

その時、吉岡さんが突然私の名前を呼んだ。

 

「井上さん」

 

私は驚いて、吉岡さんを見た。

吉岡さんは、私の顔をじっと見ていた。

 

「はい」

「いつも、ありがとうね」

 

その声は、はっきりとしていた。

吉岡さんは、今、確かに私を認識している。

 

「いえ、こちらこそ」

 

私がそう答えると、吉岡さんは小さく笑った。

 

そして、次の瞬間。

 

「あれ、今日は誰が来てるの?」

 

吉岡さんは、不思議そうに首を傾げた。

 

また、記憶が途切れたのだ。

 

私は、何も言わなかった。

ただ、静かに立ち上がった。

 

「では、また金曜日に来ますね」

「ええ。お願いね」

 

吉岡さんは、穏やかに笑った。

 

私は、ヘルパーに挨拶をして、家を出た。

 

玄関を出ると、冷たい風が吹いていた。

 

吉岡さんは、私の名前を呼んだ。

でも、すぐに忘れた。

 

それが、吉岡さんの現実だった。

 

私は車に乗り込み、エンジンをかけた。

 

吉岡さんに名前を呼ばれたことが、嬉しかった。

でも、忘れられたことに、安堵している自分がいた。

 

なぜ、安堵したのだろう。

 

私は、その理由を考えないようにした。

 

ただ、アクセルを踏んだ。

 

今日の訪問は、これで終わりだ。

 

家に帰る。

一人の部屋に戻る。

 

そして、また明日。

同じ道を走り、同じ家を訪れる。

 

それが、私の日常だった。

 

でも、今日は少し違った。

 

田中さんの言葉が、まだ胸に残っていた。

 

私は一度、人を裏切ったことがあるの。

 

裏切り。

 

その言葉の意味を、私は考え続けていた。

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