鍵を預かる人

佐藤くん。

鍵を預かる人

第1話 暗証番号

田中さんの家の玄関脇には、小さなキーボックスがある。

黒いプラスチック製で、四桁の暗証番号を入れると蓋が開く仕組みだ。中に、鍵が一本入っている。

 

私は、その番号を知っている。

2784。

 

番号を知っていれば、誰もいない家に入れる。

冷蔵庫を開けられる。引き出しを見られる。タンスの中も、押し入れの奥も。

 

でも私は、見ない。

それが、この仕事のルールだから。

 

訪問リハビリという仕事は、他人の生活に入る仕事だ。

暗証番号を教えてもらい、家の中に入り、身体に触れる。

そして、また出ていく。

鍵をキーボックスに戻し、蓋を閉める。

 

田中ハナさんは、八十六歳だ。

膝が悪い。心臓も、少し弱い。

一人暮らしで、週に二回、私が訪問する。

 

今日は木曜日。

午前十時。

私は田中さんの家の前に車を停め、キーボックスに手を伸ばした。

2784。

蓋が開く。

鍵を取り出す。

 

玄関の鍵を開けると、ほのかに畳の匂いがした。

古い木造の平屋で、廊下の床が少しきしむ。

 

「おはようございます」

声をかけると、奥の居間から返事が返ってくる。

「ああ、井上さん。今日もありがとう」

 

田中さんは、いつも居間で待っている。

座椅子に座り、テレビを消して、私を迎える。

窓際に置かれた小さな仏壇には、線香の煙が細く立ち上っていた。

 

「お邪魔します」

私は玄関で靴を脱ぎ、廊下を歩いて居間に入った。

 

田中さんは小柄で、背中が少し丸くなっている。

白髪を短く切り揃え、地味な色の服を着ている。

顔には深い皺が刻まれているが、目は穏やかで、いつも少しだけ笑っているように見える。

 

「今日の調子はいかがですか?」

「ぼちぼちね。膝がちょっと痛いけど、まあ、いつものことよ」

 

私はカバンからタオルと血圧計を取り出した。

まず血圧を測る。上が百四十、下が八十五。少し高めだが、田中さんにしては普段通りだ。

 

「血圧は問題ないですね」

「そう。ありがとう」

 

次に、膝の状態を確認する。

田中さんにズボンの裾を少しめくってもらい、膝の腫れや熱感がないかを触診する。

右膝の内側に、わずかに熱を持っている部分がある。

 

「少し熱がありますね。昨日、無理をしましたか?」

「いいえ、何もしてないわよ。ただ座ってただけ」

「そうですか。今日は温めながら、ゆっくり動かしていきましょう」

 

私はタオルを温めるために、台所に向かった。

台所は小さく、古い流し台と二口のガスコンロがある。

冷蔵庫には、娘さんが時々持ってくるという惣菜が並んでいた。

 

タオルを濡らし、電子レンジで温める。

その間、私は窓の外を見た。

小さな庭には、手入れの行き届いていない植木鉢がいくつか並んでいる。

以前は田中さんが自分で世話をしていたらしいが、今はもう手が回らないのだろう。

 

温まったタオルを持って、居間に戻る。

田中さんの膝に当て、じんわりと温める。

 

「気持ちいいわね」

「少しずつ、動かしていきますね」

 

私は田中さんの膝を支え、ゆっくりと曲げ伸ばしを繰り返す。

可動域を確認しながら、無理のない範囲で動かす。

田中さんは小さく息を吐きながら、私の手に身を委ねている。

 

この時間は、いつも静かだ。

外から聞こえるのは、遠くの車の音と、時折鳴く鳥の声だけ。

時計の針が、ゆっくりと進んでいく。

 

「井上さん」

田中さんが、不意に声をかけた。

「はい」

「番号は、覚えていますか?」

 

私は少し驚いた。

番号、というのは、キーボックスの暗証番号のことだろう。

 

「はい、もちろん」

「誰にも教えないでくださいね」

「……はい」

 

田中さんは、私の顔をじっと見た。

その目は、穏やかだが、どこか真剣だった。

 

「あなたは、家に入ってもいい人だから」

 

その言葉に、私は何と答えればいいのか分からなかった。

ただ、小さく頷いた。

 

リハビリを続ける。

膝の曲げ伸ばしを終え、次は立ち上がりの練習だ。

田中さんは私の手を借りて、ゆっくりと立ち上がる。

そして、廊下まで歩く。

 

一歩、一歩。

ゆっくりと、確実に。

 

田中さんの手は、私の腕をしっかりと掴んでいる。

その手は、小さくて、冷たくて、少し震えている。

 

廊下を往復して、また座椅子に戻る。

田中さんは、少し息を切らせている。

 

「お疲れ様でした」

「ありがとう。井上さんがいないと、もう歩けないわね」

「そんなことありませんよ。田中さんは、ちゃんと歩けています」

 

私はそう言ったが、田中さんは首を横に振った。

 

「いいえ。もう、一人じゃ無理よ」

 

その言葉には、諦めではなく、ただ事実を受け入れているような響きがあった。

 

私はカバンを片付け、帰る準備を始めた。

田中さんは、座椅子に座ったまま、私を見ている。

 

「井上さん」

「はい」

「私は一度、人を裏切ったことがあるの」

 

その言葉が、突然耳に飛び込んできた。

私は動きを止め、田中さんを見た。

 

田中さんは、窓の外を見ていた。

その横顔は、いつもと変わらず穏やかだったが、どこか遠くを見ているようだった。

 

「……そうですか」

 

私は、それだけ言った。

何を聞けばいいのか、分からなかった。

いや、聞いてはいけないような気がした。

 

田中さんは、それ以上何も言わなかった。

ただ、窓の外をじっと見ていた。

 

私は、カバンを持ち、立ち上がった。

 

「また、金曜日に来ますね」

「ええ。お願いね」

 

田中さんは、いつもの笑顔で私を見送った。

その笑顔が、どこか寂しそうに見えたのは、私の気のせいだろうか。

 

玄関を出て、鍵をキーボックスに戻す。

蓋を閉める。

カチリ、という小さな音がした。

 

私は車に乗り込み、エンジンをかけた。

 

田中さんの言葉が、頭の中で繰り返される。

私は一度、人を裏切ったことがあるの。

 

裏切り。

その言葉の重さが、私の胸にずしりと沈んでいく。

 

田中さんは、何を裏切ったのだろう。

誰を裏切ったのだろう。

 

でも、私は聞かない。

聞いてはいけない。

 

それが、この仕事のルールだ。

 

他人の生活に入るが、他人の心には入らない。

身体に触れるが、秘密には触れない。

 

私は、アクセルを踏んだ。

次の訪問先に向かう。

 

でも、田中さんの言葉は、消えなかった。

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