第3話 深夜の火事場泥棒、あるいは邪教徒への鉄槌
「火事だ! 離宮から火が出たぞ!!」
怒声が夜を裂いた。
警鐘が鳴る。ガン、ガン、ガン。
冷たい雨音と混じり、耳障りな不協和音が鼓膜を叩く。
騎士団長アラリックは走っていた。
泥水を蹴り上げ、石畳を叩く。
冷雨が鎧の隙間から侵入し、体温を奪う。
だが、腹の底には鉛のような焦燥が煮えていた。
ボヤを起こせ。
それを口実に、賓客の部屋へなだれ込め。
若き主君の、狂気じみた命令。
一歩間違えば、国が灰になる。
――迷っている暇はない。
今この瞬間も、王の命は削れている。
「消火を急げ! 賓客の身に万一のことがあってはならん!」
アラリックが吠える。
混乱する回廊を、精鋭と共に突き進む。
教皇国の聖騎士たちが道を塞ぐが、剣幕に気圧されて退いた。
「マルクス殿! 火が回っております、避難を!」
叫びと共に、重厚なオークの扉へ。
鍵がかかっている。
構わない。
鋼鉄のサバトンで、蝶番ごと蹴り抜く。
ドォンッ!
木片が弾け飛び、扉が開いた。
◇ ◇ ◇
刹那。
粘りつくような熱気が、顔面に押し寄せた。
腐った肉。甘ったるい没薬(ミルラ)。錆びた鉄の臭気。
胃液がせり上がるほどの悪臭。
アラリックは鼻を覆った。
「な……」
聖職者の寝室ではない。
そこは、屠殺場のような儀式の間だった。
豪奢な絨毯には、鮮血で描かれた魔法陣。
視神経を逆撫でする、歪な幾何学模様。
その中央、ビショップ・マルクスが跪いている。
周囲には忌避されるべき「黒い獣の骨」。
銀杯には、どす黒い液体が並々と満たされている。
マルクスが揺れている。
喉の奥から、人のものとは思えぬ低い呪詛を漏らし続けていた。
扉が壊れた音さえ聞こえていない。
「……何用か、マルクス」
背後から、隻腕の若き王が踏み込む。
マルクスが目を見開いた。
理性はない。
濁った白目。爬虫類のように縦に割れた瞳孔。
顔面の血管が、黒い蛇のように脈打っている。
「私は、公王の魂を救うべく……穢れを祓うため、神と対話して……!!」
絶叫。
遮るように、伝令兵が泥まみれで転がり込んできた。
「殿下! 父王様の変色が止まりました! 呼吸が……安定しております!」
やはり、こいつだ。
突入で術が切れたのだ。
マルクスは獣のような顔で唸った。
法衣の下から短剣を抜く。
迷わず、自らの左掌に突き立てた。
ドスッ。
新たな血が噴き出す。
「おのれ……不信心な若造が。ならば我が血肉をもって、裁きを……っ!」
震える手で、魔法陣に血を滴らせようとする。
若者の右肩が跳ねた。
失った腕の断面に、焼けた鉄串を刺されたような激痛。
幻肢痛。
視界が白く明滅するほどのノイズ。
それを、奥歯が砕けるほど噛み締めてねじ伏せる。
「陣を壊せ。……生け捕りだ」
氷の礫のような命令。
アラリックの体が弾かれた。
「おおおおおおっ!」
咆哮。
重い革靴が、血の魔法陣を無慈悲に踏み荒らす。
祭壇へ突っ込み、銀杯を蹴り飛ばした。
ガシャアンッ!
銀杯が壁に激突する。
中身の汚れた血が、絨毯に醜い染みを作って広がった。
「ぎ、あああああああッ!!」
術の遮断による反動(バックラッシュ)。
マルクスが白目を剥き、口から泡を吹いてのけぞる。
黒い血管が皮膚の下で暴れ回り、やがて泥のように沈静化した。
ドサッ。
体が床に崩れ落ちる。
「確保!」
騎士たちが殺到した。
痙攣する両腕をねじ上げ、鉄の枷をはめる。
カチャリ。
冷たい音が、狂宴を終わらせた。
残ったのは、焦げたオゾンの臭いと、気絶した男の荒い呼吸だけ。
「……殿下、捕らえました」
アラリックが脂汗を拭う。
指先の震えが止まらない。
「異端の邪術」。発見次第、火刑に処される禁忌。
高位聖職者がなぜ。
影からリオラが進み出る。
マルクスの懐を探り、書簡を抜き出した。
封蝋を確認し、目を細める。
「教皇国の国章ではありません。『枢機卿個人』の秘密印です」
若き公王が眉根を寄せる。
「どういう意味だ」
「公的な命令ではなく、内部の『過激派』による独断の可能性があります。あるいは……」
リオラが、暗い瞳を主君に向けた。
「我々に『教皇国が犯人だ』と確信させるための、周到な罠か」
若者は床のマルクスを見下ろす。
表情は能面のように動かない。
だが、隻腕の肩が小さく上下していた。
ギリギリの均衡で立っている。
「……父上の容態は安定した。最悪は回避できた」
吐き出すような声。
「こいつの処遇と背後は、後で暴く。今は――」
パパパパッ――。
城門の方角。
高く鋭いラッパの音が、雨空を切り裂いた。
帝国軍だ。
呪いの次は、鋼鉄の軍靴が到着したのだ。
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