第2話 「山場は越えた」という嘘と、裏切り者の影
夜。
闇が泥のように重い。
暴風雨が城壁を殴りつけている。
石造りの外壁を削る雨音。
遠雷が腹の底に響き、硝子窓がガタガタと悲鳴を上げた。
公王の私室。
頼りない蝋燭の火が、隻腕の影を壁に焼き付けている。
老宰相ヴァインの目の前で、影の中からリオラが滲み出た。
濡れた黒衣。
冷たい雨の匂いと、錆びた鉄の気配。
「殿下。動きが」
声は、外の氷雨のように硬い。
「王の『快方』が伝わった直後、第二騎士団副団長セドリックが伝書鳩を飛ばしました。宛先は……帝国の豪商」
若き公王の目が細められる。
第二騎士団。国境警備の要。
そこが腐っているなら、城門など無いに等しい。
「……やはり、飼われていたか」
「はい。それと、以前より命じられていた件を。この状況で利害が一致しそうな勢力ですが……」
リオラが淡々と続ける。
「南の『自由都市連合』。帝国の関税引き上げに激怒しています。経済的な首輪をかけられるのを嫌っている」
「金で動く連中か。話はできる。北は」
「『古き種族』……ドワーフの末裔。帝国の採掘部隊が、彼らの聖域を荒らしているとの噂です」
敵の敵は味方。
単純だが、血の通った理屈だ。
若者が指示を出そうと口を開く。
その時だ。
廊下の向こうから、荒い足音が近づいてくる。
濡れた靴が石床を叩く、不作法な音。
ダンッ!
扉が乱暴に開かれた。
騎士団長アラリックが転がり込んでくる。
常に冷静な男の顔が、死人のように白い。
「殿下!」
声が、恐怖でささくれている。
「父王様の寝所の衛兵が、隠し持っていた毒を煽って自害しました! さらに……父王様の容体が急変。肌がどす黒く変色しています。これは……ただの病ではありません」
ヴァインは、胃の腑が凍りつくのを感じた。
「山場を越えた」という嘘。
それが暗殺者を焦らせ、強硬手段に走らせたか。
それとも、最初から仕組まれていたのか。
城内には裏切り者。
国境には軍勢。
謁見の間には、狐のような聖職者。
そして今、公王の命という最後の砦が、音を立てて崩れ去ろうとしている。
若者は動かない。
左手の指が、椅子の肘掛けにめり込むほど食い込んでいる。
ズキン。
失われた右腕の断面が、焼けるように熱い。
幻肢痛。
骨の髄をヤスリで削られるようなノイズが、思考を白く塗りつぶそうとする。
奥歯を噛み締め、痛みをねじ伏せる。
息を吐く。
「帝国の動きは」
低い声。
「……撤退の兆しはありません」
アラリックが唇を噛む。滲む血の味。
「それどころか、『皇帝の万能薬を直接手渡す』と称し、騎兵がこちらへ向かっています。この雨の中を強行軍で。数時間後には城門へ着くでしょう」
「王の姿を見せろ、という揺さぶりか。見せられねば偽証と断じ、そのまま雪崩れ込む」
「はい。もはや猶予はありません」
若者は、鋭い視線をリオラに向けた。
「セドリックについて洗え。極秘でだ」
「承知しました」
「自害した衛兵の背後は」
「教皇国の聖印を所持していました。しかし、彼はセドリックの部下でもある。帝国が動かし、教皇国が操ったのか……あるいは、一人の人間にウジ虫のように群がっていたのか」
「マルクスは」
「自室で祈りを捧げていると称して、引きこもっています」
リオラの目が険しくなる。
「ですが、部屋からは何かが焦げるような異臭と、低い呪文が漏れています。父王様の変色と時を同じくして、『祈り』は激しくなっている。……あれは呪術です」
重い沈黙。
雷鳴が、不吉な予言のように轟く。
ヴァインは主君の横顔を見た。
物理的な軍事圧力。見えざる呪い。
二つの刃が、同時に喉元へ突きつけられている。
若者が顔を上げる。
その瞳。
恐怖ではない。
冷たく、静かに燃える青い炎。
「ヴァイン」
「は、はい」
「帝国と教皇国は、仲が悪いのか」
唐突な問い。
ヴァインは記憶を探る。
「不倶戴天の敵です。互いに『異端』と『獣』と罵り合っている。今は疲弊して停戦中ですが……」
「協力関係にはない、と」
「はい。今ここで起きているのは、『レムリアという死肉の奪い合い』です。どちらが先に食らうか。その緊張は限界に近い」
若者は小さく頷いた。
そして。
茶の葉でも選ぶような静かな口調で、狂気を口にした。
「誰にもばれないようにボヤを起こせ」
ヴァインは耳を疑った。
「……は?」
「『緊急事態』だ。マルクスの部屋に突撃しろ」
息を呑む。
火事場泥棒ならぬ、火事場強襲。
自らの城に火を放つなど、正気の沙汰ではない。
「帝国には時間を稼げ。『火災の混乱で面会不可。だが皇帝の好意は代理の私が受け取る』と」
若者の目が、暗く濁った光を放つ。
獲物を罠に嵌める、老獪な猟師の目。
「マルクスを生け捕りにしろ。殺すなよ。国の意向か、個人の暴走か。吐かせる」
立ち上がる。
右肩の傷が、ドクンと脈打った。
痛みこそが、正気をつなぎ止める楔。
「毒も呪いも軍隊も、全て纏めて相手をしてやる。……行くぞ」
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