ep16 とまどい(3)

 神官たちと手分けして、神殿の水を配った。

 それだけで、命が救われたような顔をする人たちが居る。


 杯に水を注ぐだけで、感謝される。

 そんな世界が――どうしようもなく胸を締めつけた。


 水がどれだけ生命の源になるのかは原理として理解していても、目の前で見るのとは訳が違う。

 長い間、身体も拭き上げられないのだろう、かさついた肌が痛々しかった。

 飲み水に困るということは、それだけのことなのだと実感する。


「ありがとうございます……ありがとうございます……」


 ただ項垂れたように水を受け取る村人に、胸が押しつぶされる思いだった。

 どれだけの苦労で、どれだけの心労をもって日々を過ごしているのだろうかと思えば、どんな言葉も意味をなさない気がした。

 

 一通り配り終わって、長く息を吐くと、真剣な顔をしたエルミトと目が合った。

 何か言いたげな気配を感じて、先に口を開く。


 「……正直、今けっこう機嫌が悪い。」

 

 正直に伝えた。

 実際、過去最高潮に胸の奥がぐちゃぐちゃだ。

 

「うん――ごめん、父上のこと、話したくて。」


 エルミトの言葉にしばらく悩んで、傍にあった石造りのベンチに座った。

 

「……聞く。」

 

 大人しく隣に座ったエルミトは、何か言いたいけど、言えない、そんな様子で中々口を開かない。

 その様子がなぜかあまりにかわいそうに見えて、エルミトの背をさすった。

 はじめに会った時から素直な彼は、どこか放っておけない空気がある。

 

「何か、俺に言わなきゃと思った?」

 

「……あのね、」

 思ったより幼い口調が、普段の彼は強がりだと伝えてきて、先ほど父親をかばった必死さに心が痛んだ。

 

「僕の母上はね、平民の暴動で死んだんだ。」

 

 絶句した。

 何も言えずに、エルミトを見つめる。


「だから……だからって、駄目だけど、でも、僕にとっては、ひとりの父上だから……」


 心の行き着く先がない。

 誰にだって理由がある、そんなことは分かっていたはずなのに。

 

 人間の思いの複雑さを突きつけられた気持ちだった。

 きっと、悪に振り切った人間だって居る。それを許せないのも分かる。

 けれども、ここは平和な世界ではない。慣れていない感情を、どうにも処理できなかった。

 

 たぶん、過去最高に息を吸って、吐いたに違いない。


 何か言おうとして、それでも、何の返答もできなかった。

 しばらくの沈黙ののち、エルミトは不安そうに声を出した。


「父上は、処刑される?」

 

 あんまりな言葉は、きっとそれほどに、この世界ではあり得る言葉なのだろう。

 この国が今後どう動くのかもヒナタでは分からない。


 ただ一点。

 あの感情の意味を“自分”ではなく、“本人”が一番分かっているに違いない、と思った。

 

 この世界に女神より強い存在はいない。

 あの時、ダルモンに対して怒りと共に感じた“悲しみ”は確実に彼女の思いだ。

 

 空に目を向けた。


「女神。もし聞こえてるなら――エルミトと話してやってほしい。」

 

 先ほど身体を乗っ取られかけた時に、何かが繋がった感覚はあった。

 感じた“線”を思い出し、エルミトの体へそっと魔力を伸ばす。

 

 は、っとした顔がこちらを見て、そのうちに瞳が揺らいで涙が溜まる。

 うまくいったのかもしれない。

 

 しばらくの後、ぐすぐすと涙を流す彼に胸を貸して、落ち着くまで待った。

 まるで、初めて会った時のようだ。

 

「女神様の声が、聞こえた。」

 

「……よかった。」

 いい話だったのか、悪い話だったのかは分からないが、それ以上掘り下げる必要はない気がして、ただ返答した。

 本人の中で気持ちの整理がつけばそれでいい。

 そう思っていただけに、エルミトの次の言葉には、驚愕を抑えられなかった。


「僕が、神官長になる。」


「え。」


「父様を、変えなくちゃ。」

 エルミトの若草色の瞳には、予想外な熱意が揺らめいていた。

「エルミト、」

 爛々とした瞳はこちらの言葉など聞こえてないようだ。


「ヒナタ、ありがとう。 僕、やってみせるから。父上のところに行ってくるね。」


 いうや否や、颯爽と立ち去っていく若草色の背を見て、何が起きたか飲み込めない。

 けれど、走り去っていく背中をみて、一拍置いて心の底から笑いが出た。


 ――なんて、強い。


 最近弱気になっていた自分を律された気分になった。

 

「なあ女神。」

 

 繋げようとした意識は、人へのものと違ってうまくリンクできないようだった。

 諦めてそのまま話す。


 「俺はやっぱりお前と違って、人間が好きだよ。」

 

 声が届いているかは分からない。

 それでも、言わずにはいられなかった。

 

 正直、女神に反感はある。

 けれど、それだけではなくなったのは――ダルモンに向けられた、あの“悲しみの混じった怒り”を感じてしまったせいだ。

 

「許せない気持ちも、分かるけどさ。」

 少し急足でこちらに向かってくるセリアスの姿を見て、ほっとする。

 

「……まあ、もう少しだけならお前のわがままに付き合ってやるよ。」

 

  独り言はどこまで届いたか分からない。

 それでも、少しは気持ちが晴れた気がした。

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