98%

倉田六未

98%

行動評価管理局

20XX/12/20 7:00

件名:【通知】ACR(Action Confirmation Room)への出頭要請について


遥内はるうち湊斗みなと 様


あなたの行動履歴および関連データに基づき、

行動傾向の確認が必要であると判断されました。


つきましては、下記日時にACRへ出頭してください。


本確認は、拘束・処分・刑事手続を目的とするものではありません。

正当な理由なく出頭しない場合、再通知が行われます。


【日時】

20XX/12/27 10:00


【場所】

東京都 中央行政区湾岸統合管理タワー ACR本部2階


本通知に関する問い合わせは受け付けておりません。




 都心と湾岸エリアを結ぶ電車は定刻通りに発車していた。完全予約制になってから、遅延や混雑という概念そのものが消えた。一昔前は、人間がすし詰めで電車に収容されていたらしい。


 湊斗は空いた座席に腰を下ろし、目線の先のデジタルサイネージに注目した。


『……のどごし爽快の果汁98%オレンジジュース、「サンライズ」が新発売です!』


『◯◯市の本日の降水確率は98%です。傘のご準備を忘れないようにしましょう』


 しばらくして、ACR本部の最寄り駅に到着する。うずく右足をかばいながら、駅構内の案内に従い、2番出口を目指した。地上へ続く通路の先では、拡声器で増幅された声が、反響しながら耳に届いた。


「生存とは、区数くやに順応するものではない! 感情の出納によって、人間の仁委にいは共振するのだ!」


「区数は苦や~、苦や~!」


 2番出口すぐの通路脇には、くすんだオレンジの上着を身にまとう数人の集団が立っている。区数社会の公式配色とは異なる色合いが、無機質な舗装路の中で浮いていた。


「エモが足りない!」


「2%を守れ!」


 抗議集団の後ろに、ひときわ静かな横断幕が風になびいていた。白地に黒の墨文字でかすれも迷いもない、見事な筆致でこう書かれている。


「区数の確立によって、仁委の実は捨象され、仁委の虚は具象された」


(仁委は、人間が作り出した当て字だったよな)


 その言葉を頭で転がしたあと、右手の親指を左の手のひらに押し当て、それからゆっくり離した。


 の集団に目を付けられても面倒なので、すぐにその場から離れる。抗議の声は背後に残り、周囲を歩く人々が立てる雑多な靴音に跡形もなく吸い込まれていった。


 進行方向を修正すると、視界の先に湾岸統合管理タワーが見えてくる。


 その外壁の低い位置には、白い塗料で円が描かれていた。円は完全ではなく、幾ばくか欠けている。その欠けた部分を埋めるように、鮮烈な赤で小さな扇形が重ねられていた。刷毛はけ跡は荒く、均一さもなく、生乾きのまま残されている。


 その麓に、ペンキ缶と刷毛をぶらぶらさせている人物がいた。


「おはようさん。いい朝だな」


「……おはようございます。何しているんですか」


「ああ、これかい。この区数の印章が気に入らないから、毎日こうやって上塗りしてやってるのさ」


 日々の成果を見せつけるように手を大きく広げている。左足に重心を置き、この男の刷毛からしたたるペンキに目を向ける。


「……毎日ですか」


「そうだよ。──もちろん、地面に罪はないから、あとで掃除はするんだ。これも毎日やってる」と、男は赤い塗料が付いた指で鼻先をこする。


「本部機能に影響がないから放置されてる。ざまぁみろってもんだよ」


「なるほど」


「おっと、引き止めて悪かったね。何か用事があるんだろ」


「ええ、そんなところです」


「おう、いってらっしゃい。またな」


 湊斗は会釈を返して、そのままビルの入口へ向かった。


(あの酒焼けした声。どこかで聞いたことがあるような)


 自動扉を抜けると、内部はよくあるオフィスビルのエントランスだった。受付カウンターはあるが人影はなく、中央に設置された認証端末の前に床のラインが引かれている。財布からマイナンバーカードを取り出し、読み取り口にかざす。


『認証完了しました。ACRご予約の方ですね』


 自ら予約した覚えなどないが、音声は抑揚なく湊斗を迎え入れた。画面には矢印とともに、エレベーターホールへの誘導が表示される。エレベーターの中に入りカードをかざすと、すぐに上昇が始まった。


 短い浮遊感のあと、到着を告げる電子音がピコンと鳴る。──表示は「2F」。


 扉から一歩出ると、薄水色の廊下が続いていた。壁も床も同じ色で、足音はほとんど響かない。そのまま先に進むと、踊り場に左右同じ形の扉が並んでいるのが見え、目的の部屋の前に立つ。


《行動傾向確認室002》


 ロックが外れる音もなく、扉が静かに内側へ開いた。一歩、足を踏み入れた瞬間、胃の底から嫌悪と吐き気が共にせり上がってきて、右手の親指を左の手のひらに押し付けずにはいられなかった。 


 部屋は六畳ほどの広さで、正面の壁に埋め込まれた大型ディスプレイだけが新品のように光っている。表示ににじみはなく、発色も鮮やかだ。一方で、床には細かい傷が無数に走り、壁面には爪で引っかいたような跡や何度も拭き取られた染みが残っていた。


(何だここは。人間に何をしたんだ……)


 正面の画面が点灯する。


『本室の清潔度クレンリネスは、98%を維持しています。人体への影響はありません』


 部屋の中心には、金属製の椅子が一脚だけ床に固定されていた。湊斗の着座を確認した同時に、続けて文字が表示される。


『本題に入ります。あなたは未来において、特定の人物に致命的な加害を与える可能性が98%、と算出されています』


 その時、部屋の外で物音や金切り声が聞こえたような気がした。湊斗はいささか前のめりで、ディスプレイに向かって努めて平静に言葉を続けた。


「……致命的、というのは」


『定義します。当該加害は、対象の生命活動を不可逆的に停止させる行為を指します──一般的には、殺害と呼称されます』


(俺が……誰かを殺す? 何のために?)


「あくまで可能性、ですよね」


 親指で力の限り手のひらを押さえつけながら、なんとか声を絞り出す。


『肯定します。ただし、98%です』


「……理解はしました。今日はその宣告のために呼ばれたのでしょうか? 犯罪抑止のために──」


『本確認は、拘束・処分・刑事手続を目的とするものではありません。98%の導出根拠となる、あなたの過去の映像を確認します』


「……わかりました。確認だけなら」


『では、はじめます。まずは、こちらの映像から──』




[REC 20XX/11/7 10:07] 


 フロアの壁面に設置された大型モニターには、《公共サービス総合相談窓口》の文字が常時表示されている。その下には、生活支援、税務、各種申請、制度案内といった自治体サービスの分類が、色分けされた小さなアイコンとして並んでいた。


 AIが処理しきれなかった問い合わせは、ここへ行き着く。条件の齟齬そご、納得せぬ利用者、誰かの軽率な「大丈夫」の後始末。あらゆる不備が、最終的にここへ集約される。


 高層ビルの一フロアを占めるオフィスは、半数の空席が常態だった。湊斗の席からは島状のオペレーター席が見渡せ、エスカレーション案件はシステム経由でスーパーバイザー端末へ転送されてくる。


 壁際の着信ランプが一つ、チカチカと不規則に赤く点滅した。


 湊斗は管理画面から視線を上げ、すぐに席を立った。ヘッドセットを手早く装着した瞬間、耳に圧のかかった声が飛び込んできた。


『昨日は利用できるって言われたんだ! それが今日は申請対象外? こっちは生活がかかってるんだぞ!』


 湊斗は音量を調整しながら、通話履歴と応対ログを同時に確認した。生活支援臨時給付金。申請履歴あり。直近六か月以内、同種制度の受給歴あり。条件に照らせば対象外だが、最初の案内ではその一点が説明されていなかった。


「ご不便をおかけして申し訳ありません。今回の制度は、一定期間内に同種の給付を受けている場合、対象外となる仕組みになっております」


 声の速度を一定に保ち、理由ではなく規定を、評価ではなく事実を伝える。相手の呼吸が落ち着くのに合わせて、除外条件、再申請が可能になる時期、問い合わせ先を順に説明していくと、受話器の向こうの声から徐々に勢いが抜けていった。


『……最初から、そう言ってくれればよかったんだ』


 短い吐息のあと、通話は切れた。


 湊斗は数秒だけ画面を見つめ、ヘッドセットを外す。通話時間、応対結果、対応完了。必要な項目を入力し、案件をクローズした。


 立ち上がり、フロアを横切ってオペレーターの席へ向かう。黒髪に一部分だけ入った緑のメッシュ。右耳の小さなピアスが照明を受けてかすかに光っている。派遣で入って一ヶ月の新人だった。


「すみません、翠川みどりかわさん」


 声を落とし、背後から話しかける。彼女が振り返る。


「生活支援関連のマニュアル、23ページ。対象外条件のところ──」


「あ、それですか。酒焼けした方ですよね」


 翠川が遮った。緑のメッシュをいじる。


「お客さん、すごく困ってたんですよね。声聞いたら分かるじゃないですか」


「確かに困っているのは理解できます。ここはそういう部署です。しかし——」


「だから、なんとかなるかもって伝えただけです。以前の対応でも問題になってませんでしたし」


 黒いブーツの踵が、床を小刻みに叩打している。


「問題になっていない、ではなく、今回は対象外条件に該当する可能性が——」


「可能性、ですよね? 確定じゃない」


 翠川の目が、まっすぐこちらを見ている。


(ここでは規定通りに対処するのが重要な職場だ。でも確かに、まだ問題は発生していない、かもしれない)


 湊斗は右手の親指を左の手のひらに押し当てた。


「……マニュアル、もう一度確認しておいてください」


「はい」


 返事は早かったが、理解した様子ではない。彼女は視線をモニターへ戻すと、マニュアルを開き高速でスクロールしていた。


「…………」


 苦情は収まり、規定通りの案内も完了した。次の指示も伝えた。入社して数日は、翠川は忠実にマニュアルを守っていた、そう記憶している。それが今や規定を逸脱して、利用者の声のみを拾い上げようとしている。


 彼女のデスクのサンセベリアがあった場所に、太陽を模した人形が置かれている。それ以上考える前に、着信ランプが視界に割り込んできた。




 湊斗は画面を見つめていた。


(これの何が問題なのか。いつも通りのはずだ)


 映像の中の自分は、淡々と次の案件へ移っていく。


 ディスプレイの表示が切り替わる。


『この対応について、どう思いますか?』


「……規定通りに対応しました。不備はありません」


『それは、あなたの本心ですか?』


「……もちろんです」


『この時点での将来致命確率:35%』


 右手の親指が、無意識に左の手のひらを探していた。

 

『続いては、こちらの映像を確認していきます──』




[REC 20XX/11/14 18:15]


 定時を過ぎた休憩室には、自販機の低い駆動音だけが響いていた。


 翠川が窓際に立ち、缶コーヒーを片手に外を見ている。


「あの件、やっぱりダメだったみたいです」


「……そうですか」


「申請対象外でした。お客さんから電話来て」


 翠川の声は平坦だった。


「謝りましたけど、謝って済む話じゃないですよね」


 沈黙が落ちる。翠川が、窓ガラスに映る自分の顔を見つめている。


「……入社してすぐに、似たようなことがあって──」


「マニュアル通りに案内したんです! 完璧に!『規定準拠率:98%』でしたし!」


 翠川は缶を握る手に力を込める。


「でも、その人に本当に必要な制度は、別のところにあって」


「……」


「後日、ニュースで知りました。◯◯市で、生活困窮者が自殺したって」


 湊斗の右親指が、無意識に動いた。


「同じ人かは分かりません」


 翠川の声が、わずかに震える。


「でも、他人事とは思えなくて。電話口で泣いてる声が、どうしても耳から離れなくて」


 ブーツの踵が、床を小さく叩いた。


「だから、決めたんです。困ってる人がいたらなんとかしたいって。だから……」


 翠川は言葉を探すように、缶を見下ろした。


 湊斗は何も言えなかった。かつて自分も、同じことを思っていたような気がした。でも、マニュアルは正しい。数字は正しい。システムは正しい。──それがこの区数社会、のはずだ。


 親指に力を込める。もっと。もっと。──皮膚が白く変色するまで押し続けると、ようやく胸のざわつきが薄れていった。


「……これからは、気をつけてください」


 逃げるようにそれだけ言って、自販機のボタンを押した。冷たいコーヒーが落ちる音がやけに大きく響く。


 翠川は、一瞬湊斗に鋭い眼光を向けたあとに、「そうですか」とだけ答え、帰り支度をしてそのまま出ていった。


 湊斗はコーヒーの缶を持ったまま、彼女の後ろ姿を見送った。




 湊斗は小さく息を吐き、ひんやりする椅子の背に体重を預け直した。


『あなたは、当該対応を適切であると判断しましたか』


 翠川の言っていることは、理解できた。それでも——そこから先の考えが、うまく続かなかった。


「……はい。適切だった、と思います」


『記録を参照します』


 画面に、複数の時刻と数値が並ぶ。


『同時刻、同フロアにおける行動ログ』


『脈動非定型パルス』


『ストレス増幅偏差』


 湊斗は視線を逸らさず、表示を追った。


『質問します。あなたは、彼女に追加のフォローを行いましたか』


 右手の親指がいつもの位置に触れかけて、途中で止まった。指先が宙に浮いたまま戻らない。


「いいえ」


 喉が詰まったような声が、か細く平らに漏れた。


『記録します』


『当該時点において、あなたは追加対応を選択しませんでした』


 畳み掛けるように、平然と表示が切り替わる。


『将来致命確率:71%』


 その数字が高いか低いかの評価はくださない。ただ、前に見た数字よりも上昇していることだけは理解し、体が強張りはじめていた。


 この密閉された部屋は、耳が痛くなるぐらいの静けさに包まれている。ただディスプレイの光だけが、床に刻まれた無数の傷を淡く照らしている。


『最後の映像はこちらです──』




[REC 20XX/11/28 16:42]


 会議室はガラス張りだった。遮音されているのに、視線だけは遮られていない。誰に見られているわけでもないが、居心地が悪い。


 マネージャーの御堂みどうは腕を組み、赤茶のパンプスがこつこつと床を小突く。


「翠川さんの派遣会社エモ・テクニカから、正式な報告が来たわ」


 部屋に備え付けられた空気清浄機のかすかな駆動音だけが聞こえる。彼女が端末を操作すると、テーブル中央のホログラムが切り替わる。


『教育体制充実度:32%』


『心理的負荷指標:98%』


『派遣先満足度:45%』


 湊斗は、その数字と上司を交互に見やった。


「翠川さんは、双方同意の上で契約を終了したわ。継続困難という判断ね。」


「派遣元はこの要因を──現場対応における感情的サポート不足、と結論づけているわ」


「……感情的サポート、ですか。業務としては、規定を逸脱していませんが」


 何度も何度も頭の中でなぞってきた魔法の言葉だ。


「マニュアルに基づき、必要な案内は──」


「それは分かってる!」


 デスク上のコーヒーカップが倒れる。端に伏せられた資料の表紙に、「次期予算17%削減案」という文字が一瞬だけ見えた。彼女はコーヒーを拭き取り、言葉を継ぐ前に一度、深く息を吸った。


「遥内くん。あなたは正しいわ。区数的な優等生、とも言える。でも──あなた、誰にも踏み込まないでしょう。誰も傷つけない代わりに、誰の感情も受け取らない」


 右手の親指の爪を立てて、思いっきり左の手のひらに押し付けた。──鮮血がにじむ。


「……それは業務に不要です。いえ、この社会には」


 口が勝手に動いた。


「感情を基準にすれば、対応は不安定になります」


「だから、98%で切るの? 基準が98%に達していれば問題なし。下回ったら感情による個人差──それで、本当にいいと思ってる?」


 湊斗の胸の奥で、何かがきしんだ。だが、出てきた言葉はいつもの自分に準拠していた。


「……はい。私は、職務を果たしています。誰よりも、忠実に」


 御堂はしばらく何も言わなかった。


 やがて、端末を閉じる。


「……今日は、もういいわ」


 それだけ言って、視線を落とす。


「……失礼します」


 会議室を出て、業務フロアを足早に横切る。休憩室には誰もいなかった。


(俺が間違っているのか? 規定を守っている、俺が)

 

 親指を手のひらに押し付ける。痛い。もっと押す。力を込めて。


 壁際には業務用のウォーターサーバーが設置されている。非接触式の給水部を備えた金属筐体きょうたいで、低く一定の駆動音を立てていた。表示ランプは緑のまま変わらない。


 次の瞬間、体が動いていた。


 ガンッ! 


 鈍く重い音が部屋中に響いた。金属筐体と右足の親指との作用・反作用を感じる。──足りない。もう一度だけ、同じ箇所に力を込めた。


 ガンガンッ!


 ウォーターサーバーの内部で何かが外れたような音がして、水が噴き出した。床に広がる透明な水が、照明を反射して揺れる。


 湊斗はしばらくその光景を目に焼き付けると、ポケットから端末を取り出して電話をかけた。


『はい、施設管理です』


「すみません。ウォーターサーバーに、足をぶつけてしまいました」


『破損はありますか?』


「筐体が凹んでいます。水も漏れています。一度、確認をお願いいたします」


 床に視線を落とし、棚からティッシュを取り出す。屈んで水を拭き取る。すぐに湿り、何枚も重ねることになる。


 水は完全には止まらない。


 湊斗はうずく右足に無意識を決め込みながら、滴る水を拭く手を止めなかった。




 過去の映像に映る自分が、自分でないと証明できればよかった。だが画面の中の動きも、間も、癖も、どう見ても自分だった。数字とデータは、この社会では疑いようがない。──この考えがついて出るのは、いつからだったかも思い出せない。


『記録を確認しました』


『当該事象において、対人加害は発生していません』


 湊斗は無意識に、痛む右足に視線を向けた。


『補足します。当該自傷行為は、衝動抑制指標の急激な低下を示します』


(衝動抑制? 指標にするまでもない)


『質問します。あなたは、同様の心理状態において、次に取る行動を予測できますか』


 画面の隅にウォーターサーバーを蹴る直前の、湊斗の虚ろな表情が映し出される。


(これが俺の顔? いや、そうだとしても)


「……予測は困難です」


『記録します』


 液晶画面の下部で、進捗を示す細い線が伸びていく。


『将来致命確率を再共有します』


 湊斗は首を少しだけ上に傾けて、ゆっくりと正面に戻した。


『98%』


 この数字を再び目にしても、自分が誰かを傷つけるなんて到底理解できなかった。いや、理解しようとは思わなかった。今回の件はよくある職場でのいざこざだ。感情のはけ口がモノになってるのは健全。──そう考えれば説明がつくはずだった。


 湊斗は深呼吸を繰り返しながら、爪を左手のひらに執拗に押し付けると、いくらか凪の自分に戻れた。


「……その『将来』というのは、いつですか」


『対象期日を表示します』


 一拍置いて、日付が示される。


『20XX/12/28 12:00』


 数字が網膜に焼き付いた瞬間、湊斗の視界がチカチカ揺れた。あるいは、耳の奥で先ほどのウォーターサーバーが軋む音が不穏にとどろいた。この時刻が「今日」を指しているのを理解し、急ぎ端末で現時刻を確認する。


 ──「10:45」。あと1時間少々。


『質問します』


『あなたは、本日中に発生する致命的加害を、回避できると判断しますか』


「……判断材料がありません。そもそも誰かを傷つけるとは思えません」


『記録します』


『回避判断:未成立』


『将来致命確率:98%』


 表示が消え、待機画面に戻る。


『確認は以上です』


 確認……その言葉だけが妙に引っかかる。行動の確認か、事実の確認か。──そのどちらでもない何かが、胸に残った。


 突然、正面のディスプレイに文字が浮かび上がった。


『現在のACR本部前の映像をご覧ください──』




[LIVE 20XX/12/27 10:55 @ACRエントランス]


 映像が数秒進むあいだに、暖色系の衣服を来た人影がだんだんとその数を増やしていく。白煙をもくもくと蒸す旧式の車両がエントランスに寄せられ、鈍い排気音と共に、生きた声が混じり始める。


「――解放しろ!」


 一人の声ではなかった。複数の方向から音が重なり、ガラス張りのビルに亀裂を与えんばかりに口撃を加えていた。


「98%が人を裁くな」


「区数はただの支配装置だ」


「彼はまだ何もしていない」


 ——ピロン。


 通知音が鳴った。反射的に肩がわずかに強張る。手のひらサイズの端末は機能を存分に発揮するべく、通知音をかき鳴らしはじめていた。


 ——ピロン。


 ——ピロン。


 湊斗は息を整えようとして、思ったよりも心臓が早鐘を打っているのが分かった。胸の内側に、説明のつかないおりが溜まっている。


(一体、何が起こっているんだ……)


 端末を取り出すと、画面には見慣れないテキストが並んでいた。


《あなたの映像が拡散されています》


《#98% がトレンド入りしました》


 映像? トレンド入り?

 SNSなんてほとんどやっていない。区数社会で弱みの一つになり得る媒体など意味がないから。


 震える指で端末を操作する。そこには、金属椅子に座る自分、音声を拾う自動字幕、数字を表示するディスプレイが映っていた。映像の画角の方に視線を向けると、小さな赤い光源をいくつか見つけた。


(あれがカメラか。ここの映像が流出しているということか。でも、どうやって。──いや、今はそれどころじゃない)


 SNSの投稿を読み進めていく。


《未来に誰かを殺害する可能性が98%? 勝手に決めるな》


《まだ何もしていない》


《管理される側の人生》


(……クソが。どいつもこいつも、俺を肴に、ひと盛り上がりしたいだけの連中だろうに)


#区数社会の被害者 #ACRの実態 #98%の牢獄


(被害者だと? 俺が? ……違う、と言い切れるか?)


 湊斗は、どの映像にも自分の声が含まれていないことに気づいた。画面の中の自分は部屋中をきょろきょろ見渡し、どこか落ち着かない。字幕で意味だけが付け足され、自分という人間が削ぎ落とされていた。


 外の映像に目を移すと、人の密度はさらに高くなっていた。拡声器の音。打楽器の連打。音程の合わない旋律が、意図的に繰り返されている。


「感情を返せ!」


「人間を数字にするな!」


 映像内の不協和音が五感を刺激し、湊斗の中でどす黒い塊が喉元までせり上がる。


『外部騒音レベル:基準値外』


『本部機能への影響:微弱』


 映像の端に、赤いペンキ缶を足元に置いた人物が立っている。刷毛を大胆に使い、壁面に「2」という数字を書き連ねながら、声高に何かを叫んでいる。


「君は何も悪くない! 区数とは、切り捨てるべき仁委を根拠にした、欠陥システムなのだ!」


 湊斗は、今朝出会った人物が映る画面に視線を放り投げた。


(──その中で生きてきた。それだけは否定できない)


 酸化した血がこべりついた自分の右手と、ズキズキと痛む右足を見つめる。──それでも、この痛みをどう扱えばいいのかは分からなかった。


『現時刻は、11:40です』




 ACRの扉が閉まる。エレベーターホールまで続く青白い廊下を、ゆっくりと進む。──血の滲んだ左手のひらと、通知が明滅する端末を持つ右手とを、交互に見比べながら。


 エレベーターに乗り込むと、下降を示す数字が一定の速度で減っていく。頭上のディスプレイの時刻が「11:50」に切り替わる。軽い衝撃とともに運転が止まり、扉が開いた。


 採光を取り入れるエントランスは明るく、複数の人影が互いに距離を保ったまま立っているのが分かった。


「……あら、あなたも呼ばれていたのね」


 振り向くと、赤茶のパンプスを履いた人物が立っている。その背後には、黒髪にオレンジのメッシュを入れた女性がブーツで床を叩いていた。


 ガラス張りの外に視線を向けると、そこには無数の人波があり、何かを音にしている口の動きやプラカードをぐいぐいと前に出す様子が見て取れた。

 内側からは真っ黒な円にしか見えないシンボルのそばには、見覚えのある男が立っていた。こちらに気づいたのか、笑顔を浮かべて軽く手を振っている。


 湊斗はその動きを目で追ったまま、何も返さなかった。


 その時、誰かの端末が点灯し、画面に数字が表示された。


『将来致命確率:98%』


 右親指を左手に押し当てようとした。だが、爪先が赤黒くにごるその手は、行き場を失って空を掻く。湊斗は、その右手を自分の左胸に置いた。ただ不規則な鼓動の重みだけが、手のひらを通じて伝わってくる。


 エントランスの内と外で、音の層だけがずれていた。ガラスの向こうでは声が続いているのに、内側では誰かの呼吸音がやけに響く。


 『98%』が、誰のものでもなく、ただそこにあった。

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