第2話:ばいばいお嬢

窓の外には、どろりと濃厚な墨をぶちまけたような虚無が広がっている。昼間の傲慢な光に焼き殺された星たちが、砂粒のような死骸となって、その底に沈んでいた。


(…チッ、嫌な胸騒ぎで目が覚めちまった。お嬢の寝息は……安定してるな)


俺は影の感度を最大まで広げ、屋敷の「外」を探る。そこで、不浄な魔力がこすれ合うような、不快な音を捉えた。


屋敷の裏手、月明かりさえ届かない茂みの陰。そこに、アリスと「ボロを纏った男」が立っていた。俺は高木の影に隠れた。闇の中なら、自由に動き回れる。


「アリスよ……なぜ、小娘一匹殺せない」


ボロを纏った男の声は、風に風化した岩が削れるような不吉な響きを帯びていた。アリスの影のあの傲慢なツノ野郎を小さく縮こまらせ、肩を震わせている。


「……なぜ、殺す必要があるのです? 元はただの病弱な小娘ではありませんか。放っておいても、いずれは……」


「黙れ。アリス、お前には見えぬか。あの娘の血に流れる、忌々しい『陽だまり』の匂いが。あれは我らの天敵だよ」


男の手が、獲物を握りつぶすように空を掴む。その足元の影には、無数の「眼」が蠢き、俺の視線(影の反響)に気づいているかのように、こちらを凝視している。


「……これを持っていけ」


男が差し出したのは、小さな、あまりにも小さな透明な小瓶。 中に満たされている液体は、月光を透過し、たぷんと揺れた。水と言われれば信じてしまうほど、無垢で、無慈悲な輝きを放っていた。


「……これを持っていけ」 男が差し出したのは、小さな、あまりにも小さな透明な小瓶。 「それは『虚無の涙』味も、匂いも、魔力さえもない…だがこれこそが、あらゆる魔力を無に帰す『反(アンチ)魔力』の結晶だ。魔力の塊である『影』にとっては、存在そのものを消し去る消しゴムよ」


(……反魔力だと? 魔力がないんじゃねぇ、魔力を『殺す』毒かよ…上等だ。お嬢を消させる前に、俺がその虚無ごと飲み込んでやるよ)

 

アリスが震える手でそれを受け取る。 俺の『毒素捕食』の鼻が、これまでにない危機感を告げている。


(……透明で、無臭で、魔力もない。完食(デトックス)どころか、感知(サーチ)さえさせねぇってか。……上等だ。お嬢の喉を焼く前に、俺がその『虚無』ごと飲み込んでやるよ)


男が背を向けると、その姿は夜の闇に溶け込み、最初から存在しなかったかのように消え去った。


手元に残されたのは、死よりも静かな毒薬。 明日、アリスが持ってくるティーカップの中には、俺の知らない「死」が混じっている。


(…さあ、朝が楽しみだ。どっちの闇が深いか、賭けようじゃねーか)


爽やかな小鳥のさえずりが、今の俺には葬送の鐘にしか聞こえねぇ。 窓から差し込む朝日は昨日より一層まぶしく、俺の体を床に強く、薄く、焼き付けていた。


「おはようございます、セレナお嬢様。今朝は素晴らしいお天気ですよ」


扉を開けて入ってきたアリスの声は、どこまでも澄んでいた。だが、俺は見逃さない。彼女の足元、あのツノ野郎(影)が、獲物を仕留める直前の蛇のように、異様に静まり返っているのを。


「おはよう、アリス。…ふふ、なんだか今日は体が軽いの」


(……そりゃ昨日、俺が死ぬ気でデトックスしてやったからな。だが、お嬢……今日のはマズいぜ。マジでマズい)


ワゴンに乗せられた銀のトレイ。その上には、透き通ったコンソメスープが置かれていた。 湯気が揺れている。見た目は完璧なコンソメスープだ。


俺は即座に【毒素捕食】を全開にする。 (……!? クソッ、反応がねぇ……!) いつもなら毒があれば「黒いアラート」が出る。だがこいつは魔力がないから鑑定に引っかからない。 (「反魔力」……魔力のレーダーには映らねぇってことか!)


スプーンがセレナの口元に届く。あと数ミリ。その時、俺は気づいた。 スープの中に落ちたセレナの影。影が薄いんじゃない。そこに『黒』が存在することを世界が拒絶しているみたいに、不自然な『空白』が口を開けていた。そこに落ちるはずの影(魔力)が、液体の力で強引に打ち消されているんだ。


(見つけたぜ。影という『存在』を許さない空白の穴。……それがお前の正体か!)


「あ――」 セレナの唇にスプーンが触れた瞬間。俺はセレナの足元から噴き出し、スープを弾き飛ばした。 シーツにこぼれたスープが、生地の色ごと「無」に書き換えていく。


(……やらせるかよ。……なら、俺自身が『毒見役』になってやる。お嬢の喉を焼く前に、俺の腹の中でな……!)


俺はシーツに僅かに残った「虚無」を、自身の体(影)の端で掬い取った。


(――ぎ、あぁぁぁぁぁっ!!)


熱い。いや、冷たい。 影である俺の体が、触れた端から「存在しないデータ」へと書き換えられていく。魔力の回路がズタズタに引き裂かれ、俺の輪郭が、消しゴムで消されるように透けていく。


【警告:反魔力による構成データの崩壊を検知。影の維持が不可能――】 【スキル強制発動:『反魔力』への適応を開始……『存在喰らい(エグジステンス・イーター)』へ進化中】


(あがっ……、……あぁ……っ!)


意識が遠のく。体が半分、白く透けて消えた。 だが、これで「死の味」は覚えた。


「……あ。……影が、小さくなって……?」


床に膝をついたセレナが、震える指先で俺に触れた。 本来、影に触れることなんてできない。だが今の俺は、反魔力に侵された衝撃で、バグった実体としてこの世に固定されていた。


触れた指先から、ドクン、と熱い拍動が流れ込んでくる。


(……お嬢。……お前の魔力、……あったかいな……)


死ぬのが俺で良かった。 俺の存在が消えても、お嬢の中にこの「熱」が残るなら、それでいい。


【同調率上昇:12%→18%】 【一時的な「意志の共鳴」を検知。宿主より生命エネルギーの供給を確認】


(……おい、……泣くなよ……)


俺の想いは「熱い塊」となって、セレナの心臓を叩いた。 『生きろ』 泥水を啜ってでも立ち上がる、影としての執念をお嬢に託す。


「……ありがとう。……私、負けないわ!」


きっと、いい女になるだろうな。


立ち上がるお嬢。 その姿を見届けながら、俺の意識は急速にホワイトアウトしていく。 お嬢の「生きたい」というエネルギーが俺の欠けた器に流れ込み、崩壊をギリギリで食い止める。だが、もう限界だ。


(……ふぅ。……お嬢。少しだけ、……ばいばいだ)


俺はお嬢の温かな体温を魂に刻みながら、深い闇へと落ちていった。

 

 

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る