第8話 訪問者

 トントントン。


 ノックの音がギョウを深い眠りから引きずり出した。彼女はあくびをし、習慣的に枕元を探る——指が触れたのは粗い敷布だけだった。


 空っぽだ。


 彼女はばっと起き上がり、両手で慌てて周りを探った。


「鍵……鍵はまたどこへ行ったの!」


 一声の低い叫びが彼女を完全に覚醒させた。耳を澄ますと、車内には自分の呼吸音と、トンネル奥深くから遠く響く水滴の音だけが聞こえる。金属の外殻が動く時に特有の、風鈴のような微かな共鳴はない。


 ミサンはいない。鍵もない。


 見覚えのある焦燥が心に湧き上がるが、その後には、奇妙な、彼女自身も気づいていない緩みが続いた。


 これは彼女が盲目になって以来、最も深く、最も心安らかに眠れた夜だった。


 守護神が来たからだ。手を振るだけで怪物を吹き飛ばし、階段をスロープに変え、光る地面を彼女をおぶって越えていくあのミサンが。


 彼女がいれば、もう誰も自分を傷つけられない。災いを招くあの鍵を奪いに行く者もいない。


 だが今、その安心感の源が、彼女が最も大切にする鍵を持って、消えた。


「鍵は、極楽の殿へ行った。彼女と一緒に」


 ドアの外から声が聞こえる。電流の雑音と金属の摩擦の質感を帯びている。錆ビスだ。


 ギョウのこわばった体が少し緩むが、警戒は薄れない。


「何しに来たの?」


「一人だ。ドアを開けろ」


「もしまた何か“やるべきこと”を説教しに来たのなら、帰って」


「強要はしない」錆ビスの機械音は平穏で波がない。「結局、君にとって最も大切な人は……もういないんだからな。理解はしている」


 ギョウはしばし黙った。


「そうね。わかっているなら、なぜ私を訪ねてきたの?」


「“彼女”が来れば、君の考えも変わるかと思ったからだ」錆ビスは間を置く。「まさか、君たち二人が……本当に“腐れ縁”だとはな」


「だから、お帰り」


「だが君は今」錆ビスの話の矛先が変わる。「手伝いを必要としていないか?」


「何を?」


「彼女を救うことだ。君は一人で極楽の殿に入り、彼女を無事に連れ出せると、本気で思っているのか?」


 ギョウの指が無意識に服の裾を握りしめた。


「……彼女が自分で行きたいと言ったの。鍵が……鍵がまた私から離れた。なぜそんなことが起こるのか、私にもわからない」


「だからって、彼女を死にに行かせるのか?」


 錆ビスの電子音には感情が読み取れないが、問い自体が鋭い。


「止められると思う?」ギョウは顔を上げ、白い瞳をドアの方へ向けた。「何の情報もスキャンできていないとは思わないで。あなたは彼女が何者か知っているし、彼女が何を求めているかも知っている」


「ああ。彼女は“感覚”を求めて来た。そして殿のあの二人は、まさに“感覚”を極限まで調理する達人だ」錆ビスは認める。「だからこそ、彼女はより危険なのだ。彼女が追い求めるものは、彼女たちが最も得意とする毒にほかならない」


「彼女には……自分で見分ける力があると思う」ギョウの声は少し小さくなり、自分自身を説得しているようだ。


「なぜそんなに彼女を信じる?」錆ビスが詰め寄る。


「彼女も私を信じているから」ギョウは素早く答えた。「それだけよ」


「どんな決断にも理由が必要だ」


「フィーリング」ギョウは言った。まるでこの言葉が全ての答えであるかのように。「もしどうしても理由が必要なら」


「フィーリング?」錆ビスの義眼がドアの外で一瞬光ったかもしれない。「君は何を“感じた”?」


「彼女が私をとても必要としていること」ギョウの手がそっと自分の胸に当たる。「彼女の声が初めて近くから聞こえた時、わかったの……彼女はお母さんが言っていた、来るべき人なんだ。そして私も、彼女を必要としている」


 ドアの外に数秒の沈黙。エンジンの低い余熱だけがブーンと響いている。


「では、もし私がこう言ったらどうする?君の“守護神”は今、何一つ事態を掌握できていないかもしれないと」錆ビスの声が低くなる。


「どういう意味?」


「聞け」錆ビスが言う。「極楽の殿の音楽が、止んだ。彼女たちが普段徹夜で騒ぐこの時間に、止んだ。こんなに早く止んだことは、一度もなかった」


 ギョウは耳を澄ます。トンネルの奥深くから、確かにいつもかすかに聞こえていた、神経をくすぐる淫らな音楽はなく、ただ異常な死寂だけが広がっている。


「たぶん……彼女たちが疲れただけかも?」ギョウの声には少し虚ろがある。


「たぶんな」錆ビスはゆっくりと言う。「彼女たちが、より注目に値する“何か”を“感じ取って”、表面的な狂騒を維持する暇さえなくなったから、かもしれないな?」


 長い静寂。ギョウは自分の心臓の鼓動が、がらんとした車内で大きく響くのを聞くことができる。


 ついに、彼女は手探りで立ち上がり、ドアまで歩み寄り、ドアを開けた。


 錆ビスが一人、ドアの外の薄暗い光の中に立ち、深紅の機械式アイが彼女を見つめている。


「教えて」ギョウが尋ねる。「どうやって“救う”つもり?」


「ジョウを訪ねる」錆ビスが答える。


 ギョウの顔色が一瞬で青ざめる。


「彼女を?それと極楽の殿へ直接死を求めに行くのと、何が違うの?」


「違いは、ジョウには能力も、理由もあって、極楽の殿の宴会を“邪魔”できるということだ」錆ビスのハサミ腕が、肩をすくめるような動作をしてみせる。「そして我々は、あの二人の主に勝つ必要はない。混乱に乗じて……君のミサンを連れ出せばいいだけだ」


「どうやってジョウに協力を説得するの?私たちは何を代償に払うの?」


「極楽の殿と対抗するのは妄想だが、十分な注意を引く“騒動”を起こすことは可能だ」錆ビスの義眼の赤い光が揺らめく。「代償については……ジョウは以前から君のことを、君の鍵を、君の“正しさ”を、偏執的なほどの興味を持って見ている。君が直接、彼女と条件を交渉できる」


 ギョウはドア枠に寄りかかり、白い瞳を錆ビスの声の方向へ、いやそれを通り越して、トンネルのさらに奥深く、死寂が伝わってくる方へと向ける。


 しばらくして、彼女はごくかすかにため息をついた。その嘆息には、運命を受け入れたような疲労がにじんでいる。


「……そうするしかないわね」

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この瑕疵ある天使に、鍵をください 野間羊 @yang_7368

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