第5話 音符の贈り物と戻れぬ道

 ギョウが目を覚ますと、見知らぬ香りが漂っていた。


「起きたか?」


 ミサンの声が車両の向こう側から聞こえる。


 ギョウはあくびをして、声の方向に顔を向けた。「何してるの?」


「お前たちが“料理”と呼ぶものだ」


「料理?何を作ってるの?」


「オムライスだ。まだ光る機械から見て覚えた」


 ギョウはぽかんとした。「そんなことできるの?」


「試してみた」温かい皿が彼女の手元に置かれた。「お前には見えんから教えてやる:見た目は悪くない。少なくともビスケットよりはましだ」


 ギョウはうつむき、慎重に皿の縁に触れた。香りが温かくたちのぼる。


 一口すくって口に運ぶ。思いのほか、温かな味が広がった。


「……ありがとう」


「さっさと食べろ」


 彼女たちは質素な食事を静かに分け合っていた。その時、ノックの音がした――叩くというより、リズミカルで軽やかな、まるで指先がガラスの上で踊るような音だ。


 ミサンが立ち上がりドアを開ける。


 外には背の高い“人”が立っていた。きちんとした青いスーツを着ているが、頭部は浮遊する、流動する音符で構成された抽象的なシンボルだ。音符はゆっくり回転し、淡い青い微光を放っている。


 優雅にお辞儀をすると、音符の中から澄んだ男声が響いた。「ごきげんよう。私の卓越した雇主からの、ささやかな贈り物です」


 精巧な籐編みのバスケットを差し出す。


「お前は誰だ?」ミサンは受け取らない。


「私ですか?」音符が愉しい顫音を発する。「拍手を享受する、つまらない藝術家に過ぎません。贈り物は届けました。どうか片刻の歓びをもたらしますように」


 そう言うと、バスケットを軽く地面に置き、後ろへ一跳び――形體が空中で散り、きらめく楽譜へと変わり、いくつか澄んだ音符と共にトンネルの空気の中に消散した。


 ミサンはバスケットを提げて車內に戻る。


「何だったの?」ギョウが聞いた。スプーンが空中で止まっている。


「籠だ」ミサンが絹の布をめくる。「中身は……」


 彼女の言葉が途切れた。


 籠の中には整然と並んでいる:金属光沢を泛べた「ケーキ」、銀色のクリームで覆われたもの;小さな瓶、透き通り内部に星雲が回転する液体;機械部品のように完璧な形の濃い色のキャンディー。


 全てがミサンの認識において、彼女に完璧に合致する「食物」だった。合金のクリームケーキは、彼女の記憶の深層にある高級エネルギー源の誘惑的な周波数を放っている。


「あっちの連中のものよ」ギョウの声が冷たく引き締まる。「入口に置いといて」


「持って入らないのか?これはどう見ても……俺が食べるものだ」


「あなたが食べそうだからこそ、餌なの」ギョウは彼女の方に向き直り、白い瞳に鋭さが張り詰めている。


「連中は、街の中心のあの光る建物の住人か?」ミサンは籠を傍らに置く。


「どうして知ってるの?」


「あの声を聴いたことがある。夢の中で、とても近くで。彼女たちは“正しい”味について話し、“扉がひとりでに開く”のを待っていた」


 ギョウの息が一瞬止まる。「あなたに何て言ったの?」


「直接は言ってない。偶然聞こえた囁きのように」ミサンは彼女を見つめる。「彼女たちは俺が聞こえると知っているのか?」


「わからない」ギョウが服の裾を握りしめる。「でもミサン、彼女たちの言葉は一切信じちゃだめ。あの“極楽の殿”に極楽なんてないの。あるのはただ……」


「ただ何だ?」


「ただ溺れて二度と目覚められない“感覚”だけ」ギョウの声は低い。「それはまさに、あなたがずっと追い求めてきたものじゃない?」


 ミサンは黙った。ケーキが放つ周波数は、優しい手のように、彼女の一つ一つの鍵穴の内壁を掻きむしる。


「お前の言う通りだ」暫くして、ミサンが口を開いた。「彼女たちが享受しているものは、おそらく俺が追い求めるある種の究極の形態なのだろう」


「だから鍵はあなたを行かせない」ギョウが突然言った。その口調は複雑で確信に満ちている。


 ミサンが彼女を見る。「何だ?」


「試しに行ってみて」ギョウがトンネルの方へ指をさす。「あちらへ数歩、歩いてみて」


 ミサンは眉をひそめ、立ち上がり歩き出す。


 一歩、二歩。


 三歩目、車両の影から踏み出そうとした瞬間、無形の力が彼女のコアを猛然と掴んだ――存在次元での錨づけ。まるで彼女とギョウの間に突然、見えない糸が張り詰めたかのようだ。糸のもう一端は、ギョウが無意識に握りしめた右手に結ばれている。


 ミサンはよろめき、穏やかながらも断固として車内へ“引き戻された”。


 彼女は驚いて振り返る。


「ほら」ギョウが囁くように言った。顔には疲労だけが浮かんでいる。「鍵はあなたを行かせない。あなた自身も……あまり遠くへは行けないの」


「なぜだ?もしあそこに本当に俺が欲するものがあるなら?」


「それは“与える”ことじゃなく、“喰らう”ことだから」ギョウが白い瞳を上げる。「彼女たちは私たちを“受け入れる”ことなんてしない。ただ味見し、分解し、空っぽの殻を新しい装飾に変えるだけ。鍵はそれを知っている。だからあなたを行かせない」


 彼女は一呼吸置き、ため息のように軽く言った:


「鍵があなたを開いた瞬間から、私たちが歩める道は……もうとても少ないのよ」


 車内は再び静寂に包まれた。


 入口の贈り物の籠は、甘美で危険な周波数を放っている。


 遠くのトンネルの暗闇から、かすかに極楽の殿の楽音が漂ってくる。セイレーンの歌のように。


 彼女たちは薄暗い燈火の下に座り、間に冷め切ったオムライスの皿と、形を現したばかりで、どこへ続くのかわからない一線を隔てていた。

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