第2話 ギョウ

 女は絡み合った黒髪と、乳白色の瞳のない目をしていた。色褪せたパーカーを着て、フードは肩の後ろにかけられている。


「こんにちは?」


 女が先に口を開いた。声はとても小さく、長く水を飲んでいないような嗄れが混じっているが、恐怖は感じられない。


 ミサンは少し驚いた。この世界の生物は皆、ブリキの男たちのようにコードで会話するものだと思っていた。更に奇妙なのは、彼女がその言葉を理解できたことだ。


 彼女が近づくと、ブーツの下でガラスが砕けた。


 女は逃げなかった。


「何か、探しているんですか?」女は再び尋ねた。白い瞳で、ミサンがいるおおよその方向を「見て」いる。


 ミサンは答えなかった。女の目の前まで歩み寄り、しゃがんで、自分自身の視線をその白い瞳と同じ高さに合わせた。


「あなた……どうして逃げないの?」ミサンが聞いた。


「あなたは、人間ですか?」女は問い返した。口元が、わずかで、探るような弧を描いた。


 ばかげている。誰がお前みたいな炭素ベースの不完全品と同じものか。


 いっそ、殺してしまおうか。ひょっとしたら、彼女の血肉がどれかの鍵穴を埋めるのにちょうどいいかもしれない。


「何かを探してるんです」ミサンが答えないのを見て、女は独り言のように話し続け、瓦礫の中を指で探った。「とても大事なもの……でも、目が見えないから、いつも見つからないんです」


「何を?」ミサンは思わず聞いた。


「鍵です」女は言った。白い瞳は何も映していないようでありながら、空全体を映しているかのようだった。「お母さんが残してくれたの。『本当にそれを必要とする人に出会ったら、それは自分から現れる』って」


 鍵。


 ミサンの心臓(エネルギーコア)が、一度強く搏った。


「あなた……」ミサンは目を細めた。「探すのを手伝おうか?」


「いいんですか?」女の顔に、ほんの少し光彩が浮かんだ。「それじゃあ……ありがとうございます」


 さっそく始めよう。


 ミサンは立ち上がり、即興の口笛を一つ吹いた。彼女は女の後ろに回り込み、腕を気ままに上げた。


 少し離れたところで、トカゲ形態の異界生物が半ば遺体を食いちぎっていた。


「あなた、見えないんでしょ?」ミサンは優しく囁き、指先をその怪物に向けた。「ならちょうどいい……怖がらなくて済むから」


 彼女がそっと指を引く。


 怪物の体が硬直し、見えない力で地面から引き剥がされ、高速で二人の方へ飛んでくる。空中で四つに裂けた口器を開き、中央にあるドリルのような舌が狂ったように回転し始めた。


 頭部を狙って。


 手を離す。


 怪物は生臭い風を伴って、盲目の女に襲いかかった。


 時間が止まった。


 空気の流れ、塵の落下、遠くの炎の揺らめき――全てが、一点の絶対的な静止の中に凝固した。あの怪物の口から飛び散った唾液さえも、空中に浮かび、濁った滴となって静止している。


 例外は二つだけ。


 彼女自身。そして、あの盲目の女だ。


 より正確には、女の目の前に突然現れた、あの鍵。


 それは虚無から浮かび上がり、空中に浮かんでいる。その材質は名状しがたい――金属でも木でもなく、むしろ固形化した光のようだ。長さは十センチほどで、そのビット(歯形)の複雑さは目眩がするほど。


 鍵はゆっくりと回転し、先端がミサンに向けられた。


 そして、空間そのものが皺になった。


 ミサンの額が鍵の先端に正確に運ばれ、鍵穴の縁が歯形に触れんばかりの距離まで近づく。


 接触の瞬間、痛みはなかった。


 あるのは、開く感覚だけ。


 鍵は優しく、抗いがたい力で、彼女の額の中央にある鍵穴へと回り込んだ。時計回りに、四分の一回転。


 カチッ。


 音は小さかったが、絶対的な静寂の中では、宇宙開闢の最初の音のように明瞭だった。


 ミサンの認識が開かれた。彼女は世界の底流にあるテクスチャー(構造)を「見」、エントロピー増大(崩壊の法則)と減衰を見、目の前のこの女――歩くトラウマ(心的外傷)、自己完結したパラドックス(逆説)を見た。


 盲目は彼女自身の選択だった。


 そして彼女の意識の深層には、一部が欠けた手記、母親の冷たい手、言い終えられなかった言葉がしまわれている。


 そして、繋がり。彼女の額の鍵穴から、虚無の一本の糸が伸び、女の意識の一点に結びついている。


 鍵は反時計回りに回転し始め、ゆっくりと抜けていく。


 それが完全に鍵穴を離れた瞬間、時間の流れが戻った。


 怪物は女の足元に落ち、すでに空っぽの殻となっていた。


 鍵は空中で一瞬きらめくと、消え去った。


 盲目の女はゆっくりと立ち上がり、ズボンの裾の埃をはらった。彼女はミサンの方に首をかしげた。


「あなた……」ミサンの声は震えていた。これは彼女が初めて体験する「恐怖」だ。「あなたは一体、何者なんだ?」


「私はギョウ」女は言った。その口調は、何気ない挨拶をする時のように平静だった。「さっきも言いましたよね?鍵を探しているんです」


「あの鍵は――」


「お母さんが残してくれたの」ギョウは彼女を遮り、相変わらず淡々とした口調で続けた。「鍵が、あなたを見つけたんですよね?」


「……ああ」


「ならよかった」ギョウはうなずき、ささやかな用事を一つ済ませたかのように言った。「それじゃあ、お礼に……少しお腹が空いたんです。何か食べ物を探す場所に、連れて行ってくれませんか?」


 ミサンはまだ膝をついたままで、震える指で額の中央を触った。鍵穴は無傷だが、そこが満たされた時の戦慄がまだ残っている。


 彼女はギョウの手を見た。その骨ばって、小さな傷の多い手が、さっき彼女の存在を開く鍵を呼び出したのだ。


 しばらくして、ミサンは自分自身の声を聞いた。


「……ついて来い」


 彼女は廃墟の奥へと歩き出した。背中の鍵穴がオレンジ色の天光を受けて、一列に並んだ、沈黙した、そして今まさに目覚めた瞳のように見えた。


 ギョウは彼女の半歩後ろを、驚くほど軽やかな足取りでついて行った。

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