第10話 不安が現実に(エレナ視点)
ふらつきそうになる足をなんとか前へ押し出しながら、私はアルが待つ執務室へ向かった。途中、何度かドミニクに支えてもらいながらも、ようやく執務室の前までたどり着くことが出来た。けれど、その扉を直ぐに開ける事が出来い。
扉の前に立つ私に、彼はそっと礼をしてから、中の会話が聞こえないよう、気を利かせて扉から少し離れた位置に控えてくれた。でも、その気遣いがかえって、私の震えを止まらなくさせていた。それでも、その震えを押さえ込み、部屋のドアをノックすると、普段の彼からは考えられないほど力のない声が返ってきた。
「入ってくれ……」
部屋へ入ると、私の様子に気付いた彼が、すぐに私を引き寄せ、強くも優しい腕で抱きしめてくれた。温かいその腕の中は、今の私にとって唯一“こんな時でも安らげる場所”だった。
彼と初めて出会った頃の私は、こんなふうにアルに心を預ける日がくるなんて、想像もしていなかっただろう。
当時の学院では、アルは容姿だけではなく、家柄や能力すら他の生徒とは比べられないほど群を抜いていた。そして、噂だけが一人歩きするほど、畏れられた存在で、私も彼の事が怖くて仕方がなかった。
気に入らない上級生を血祭りに上げたや、平気で他人を踏みつけ、それに罪悪感すら感じない冷血な人間。人の感情を持たない人形。
二つの学年だというのに、私まで聞こえてくる彼の噂はどれもが、そういった怖いものばかりだった。それに、先代。あの血統主義の強い父親の影もあり、“階級の低い私は近づいてはいけない存在”と成り果てていた。
だから、初めて会ったとき、私は全力で逃げた。目を合わせず、記憶に残らないように。それなのに、あの日を境に彼の姿を見かける回数が増え、そのたびに“何か怒らせることをしたのだろうか”と恐怖で胸が冷えていた。
けれど、陛下からの一通の手紙をきっかけに、すべてが変わった。
ゆっくりと距離が縮まり、時間を重ねるうちに、気づけば彼は、私の心を守る人になっていた。
この温もりに甘えれば、彼は何も言わずに許し、一人で重荷を背負おうとするだろう。だからこそ、現実から目をそらし、甘え続けるわけにはいかない。
「……アル。何があったのか……教えてください」
覚悟を決め、言葉を絞り出すように問いかけると、アルは静かに息を吐き、教会で起きたことを話し始めた。だけど、話を聞くうちに、私は次第にアルの顔を見られなくなった。
アルの口から、“リュカを切り捨てる”言葉が出てしまうのではないかという不安と、そんなはずはないと信じたい気持ちとが、胸の中でぐちゃぐちゃにぶつかり合っていた。
「……エレナ。リュカは、君が私にくれた宝物だ。私は、その宝物を手放すつもりはないよ」
その言葉に、俯いていた顔を上げれば、そこには優しくはあるけれど、揺るぎない微笑みを浮かべた彼の姿があった。
「だから、リュカにとって何が幸せなのか、家族みんなで考えよう?」
ああ、この人は本当に家族を何よりも大事にしてくれる。きっと、私達のためならば、仕事だけでなく、歴史あるこの家さえも捨てても構わない、と平然と言えてしまう人。そんなアルを一瞬でも疑った自分が恥ずかしくなった。
でも、彼は軽口めいた口調でありながらも、”思い知らせてやる”と言っていた。きっと、私の気を晴らすための冗談だと、頭ではそうわかっている。けれど、私は知っている。まだ学院にいたころ、無機質で、何を考えているのか分からなかった“あの頃の彼”を。
冗談半分の口調でも、彼が本気を出せば何だってやり遂げてしまう。それを知っているからこそ、どこかでぞくりとするような恐怖が心をかすめた。だけど、そんな不安の影を押し流すように、彼と過ごしてきた日々が脳裏に浮かんだ。
リュカを抱き上げて微笑んだ顔。仕事終わりで疲れも見せず、私の愚痴に耳を傾けてくれた優しい横顔。夜、私が眠るまでそばにいてくれた、あの温度。思い返すほどに、胸の底にふわりと温かいものが広がっていく。
その相反する感情の中心に、“今の彼”がいる。そう思ったら、さっきまでまとわりついていた不安が、すっと薄れていった。アルがそばにいてくれる限り、私は前に進める気がした。
そう気づいた時、コンコン、と扉が叩かれた。
「ドミニクです。リタが来られています。入ってもよろしいでしょうか?」
アルが確認するように私を見る。それに私が小さく頷けば、彼は二人を部屋へ招き入れた。
「失礼いたします」
ドミニクに続き、ゆっくりとリタが姿を現した。彼女は私の乳母をしてくれた方の孫娘であり、それを通じて親友になった女性の娘でもあった。
彼女とは幼馴染のような関係で、私の側仕えとしても近くにいてくれた。けれど、学院を卒業してからは、結婚して田舎にいる乳母の下へと戻ってしまった。でも、その後も手紙を交わしており、そんな彼女からある日、「娘の働き先を探している」と相談を受けた。
その話をアルにしたところ、「君に仕えていた人なら信頼できる」と、リュカの世話係として迎えてくれたのだ。そんな彼女をアルも信頼し、後を任せて来たとは聞いていたけれど、その緊張した様子に、私の方が大丈夫だったのか疑いそうになった。そんな私達の視線を一身に受けながら一礼すると、その口を開いた。
「リュカ様がお目覚めになられました」
「!!」
胸が跳ね、私は思わず立ち上がった。今すぐにでも駆け出したかったが、アルが静かに私を制する。
「エレナ、落ち着いて。先ずはリタの報告を聞こう…」
優しく席へと戻るように誘導するけれど、いつもは揺るがないアルの声が、僅かに震えていた。
「それで、リュカは……どんな様子だった?何か変わったことはなかったか?私が……会いに行っても……大丈夫そうか……?」
その言葉で、自分が会うことでリュカを傷つけてしまうのではないか、そんな恐れが彼を縛っているのが分かった。だからこそ、アルが私にしてくれたように、そっと彼の手に触れた。アルの不安が少しでも和らぐように。
そうすれば、こちらを見るその表情に、ほんの少しだけ色が戻っており、私はことに胸をなで下ろす。だからこそ、次に発したリタの言葉が、より胸に突き刺さった。
「……落ち込んでいる、という様子はありませんでした。ですが……自身のことを“俺”と言ったり……
私が誰なのか分からないご様子でした……」
あぁ…私の不安が……現実になってしまった。
胸の奥で、何かが音を立てて崩れ落ちた。
落ちこぼれの貴族、現地の人達を味方に付けて頑張ります! ユーリ @yurisuzuki
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