第4話 玲蘭の記憶と、葉月の過去

「れ、玲蘭様! 以前、お渡しいただいた香ですが……!」


 その日の午後、大きな音を立てて、侍女の一人が玲蘭の部屋に飛び込んできた。

 あまりの剣幕に、葉月は肩をビクッとさせる。


「ど、どうしたの?」

「この香……! これは、いったい……!」


 侍女の手には何かが握りしめられていた。


「それは……」


 小さな香包だった。絹だろうか、上品な布袋には可憐な花紋が縫い込まれている。贈り物にピッタリだ。


 ――その香のことは、玲蘭の記憶にあった。


 玲蘭が命を落とす数日前、新しい香包を作ったからと、女官長に渡していたものだ。女官長は訝しげな表情をしていたけれど、くれるというものを断るわけにもいかず、結局受け取っていた。

 それに何が入っているかも知らず。


 今の葉月は、その中身を知っていた。

 あれは「香り」で人を和ませるものではない。


「そ、その香を焚いた侍女長が……っ、倒れられて……!」


 侍女の言葉に、葉月の背中に冷たいものが浴びせられた。

 玲蘭の記憶がよみがえる。


 ――その香は、鎮静ではなく、人を鈍化させるための香。感情を沈ませ、思考を緩ませ、判断を奪うためのものだった。


 焚けば、深い深い眠りに人を誘う。

 とはいえ、命を奪うようなものではないことはたしかだ。


「……放っておきなさい」

「そ、そんな! 倒れられてから、一日以上眠り続けているのです! このまま目覚めなかったら……」


 侍女は泣きそうな顔で訴える。

 その表情に胸が苦しくなる。


 ――これが、玲蘭の香の使い方。


 人を癒すためではなく。

 人を招き寄せ、惑わせ、堕とすための香。

 香炉に落ちる香灰のように、静かに、気付かれないまま侵食していく悪意。


「大丈夫よ。きっとそのうち目覚めるわ」


 少しでも安心できるように、落ち着いた優しい声で伝える。葉月の言葉にぐっとこぶしを握りしめたあと、女官はわずかに息を吐いた。


「……わかり、ました」


 身をひるがえし、玲蘭の部屋から出て行く侍女を申し訳ない気持ちで見送ると、葉月は小さく首を横に振った。


 ――悪女。


 後宮に住まう人々は、玲蘭をそう呼ぶ。

 後宮に巣くう悪意のかたまりのような人間。

 それが、今は亡き――今は葉月となった、沈玲蘭という少女を形容する言葉だった。

 


 幼い頃、祖母の仏壇に、母が焚いていたお線香。その香りは優しくてあたたかくて甘くて愛おしくて、幼い葉月の心を一瞬にして虜にした。母に『これは何の香り?』と聞くと、『おばあちゃんの好きだった香りよ』と微笑んでいたのを今でも覚えている。


 大切な人が亡くなってからも、香りはその人との思い出をよみがえらせる。記憶と強烈に結びつく香りに、いつしか夢中になっていた。


 香りへの興味はどんどん広がっていった。お線香にお香、香水にポプリと、集めるだけじゃなく自分でも作るようになっていった。香りを学べるというだけで、進学先も決めたほどだ。


 香りの、時間が経つと、その人の香りと混ざって自分だけの唯一無二の匂いになるのも心ときめく要因の一つだ。香りには、目には見えない、その人だけの物語が宿っていると信じている。


「だからこそ、あそこに就職できたときは、天職だって思ったんだけどなぁ」


 香炉の灰を馴らしながら、葉月はため息を吐く。

 就職活動の結果、大手デパートの香水売り場で働けることが決まったときは嬉しかった。たくさんの人に、その人だけの香りを届けるんだと張り切っていた。


 でも、現実は、夢とは少し違っていた。店頭に並ぶ香水は、売れ筋と在庫状況が全て。この間まで人気だった香水は、流行りが終われば倉庫に返品されてしまう。有名人が使っていると話題になれば、ディスプレイが一気に変わる。


『この香り、きっとあの人に似合うはず!』


 そう思っても、紹介できるのは、プロモーション中の商品ばかり。本当に勧めたい香水は、いつまでも棚の奥で眠っていた。


 きっと玲蘭なら「くだらないわ」って言って、ディスプレイされた香水を全て落としてしまうに違いない。

 玲蘭のことは好きになれない。けれど、こうやって玲蘭として振る舞っていると、こんなふうに少しぐらい自由に生きてもいいのかもしれないと思わされる。


 たとえば、葉月は車の来ていない横断歩道さえも無視して渡ることができない。真面目と言えば聞こえはいいけれど、融通が利かないと思う人も多い。

 葉月は自分がルールを破ることだけでなく、他人に対しても同じように感じて見て見ぬふりができない。そのせいで余計な諍いに巻き込まれることもあった。


 だけど、玲蘭ならどうだろう。人がルールを破っているのを見ても、弱みを握ったと思うだけかもしれない。もしくは興味すらないのかも。


 冒険の一つもすることなく大人になって、きっとこのまま死んでいく。それでいいと思っていたけれど、そうではない生き方もあるのかもと玲蘭に思わされる。


 むしろ――。


「玲蘭みたいに、自由に生きられたら……」


 一度ぐらい玲蘭のように我が侭に、自由に発言をしてみたい。好きなように振る舞ってみたい。

 せっかく第二の人生を送っているのだから、葉月としてできなかったことを思う存分やってみたい。


「……うん、決めた」


 ぐっと手を握りしめると、葉月は思い切り息を吸った。玲蘭の部屋に漂う、葉月だけの香りで肺を満たすように。

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