第5話 招かれざる訪問者

「――誰?」


 その日、聞こえてきた物音に葉月が声をかけると、扉の向こうで、控えめな声が聞こえた。


「……失礼、いたします」


 入ってきたのは、ちょう杏鈴あんりんという侍女だった。両手に持った盆には、湯気の立つ茶と、小さな菓子が一つ。

 盆を持つ手がわずかに震えていた。

 怯えているのが、視覚的にも、そして嗅覚としても感じられた。


 ――これは、転生後に手に入れた能力のひとつだ。


 理由はわからないけれど、今の葉月は、匂いから相手の感情を読み取ることができる。思考までは読み取ることができないから、そこまで役に立つものではないかもしれないけれど、悪意が伝わってくるのは正直ありがたい。


 以前の葉月は、他人の悪意に気づくことも、上手くかわすこともできなくて、つらい思いをしたことが何度もあった。でも、この力があれば、もう誰かの悪意に傷つけられることもないはずだ。


 杏鈴は部屋の入り口で一度深く頭を垂れ、視線を床に落としたまま歩み寄ってきた。顔は上げない。怖がっているのだ。玲蘭を。

 玲蘭であればきっと、偉そうに、そして叱責するように杏鈴に接する。けれど、今の玲蘭は葉月だ。


「どうかしたの?」

「あ、の、えっと……おやつを、お持ちいたしました」


 とはいえ、杏鈴が戸惑っているのなんて、その能力がなくとも表情と言葉でハッキリとわかってしまうのだけど。

 思い立って、玲蘭のように振る舞うのではなく、葉月自身の言葉で伝えるようにしてみたけれど。


 ――やっぱり、みんな変だって思うよね。


 元に戻した方がいいのだろうか。

 玲蘭の選びそうなものを選び、言いそうなことを言う。

 そうすれば、周りは葉月に対して違和感を抱かないかもしれない。


 けれど、それでは上司の、同僚の顔色を窺っていたころと同じだ。葉月として現世を生きていたときと代わり映えのない人生をここでも送るというのか。


 そんなの、嫌だ。

 たとえ、周りから怪訝そうな目で見られたとしても――。


「こちらに置きますね」


 どういうわけか、杏鈴はニコニコと笑顔を見せると、盆に載せていた湯呑みとお菓子を机に並べた。


 この杏鈴という少女は変わっているのかもしれない。

 素直な性格をしているのか、それとも多少のことでは動じないのか、杏鈴は変わらず玲蘭の世話をしていた。というか、周りから押しつけられているのではと思うぐらい、杏鈴がこの部屋に来る比重は多かった。


「あなたは、私のところに来るのを嫌がらないのね」


 思わず口に出してしまった葉月に、杏鈴は驚いたように元々大きな丸い目をさらに丸くした。


「あ、あの、他の方たちも玲蘭様を嫌がっているわけでは……あっ」


 素直なのが、いつでも本当のことを言うのがいいとも限らない。そう思いつつも、杏鈴の不用意なひと言を咎める気になれないのは、そんなことを言わせたのが玲蘭自身だとわかっているから。


「いいわ、気にしてないから」


 杏鈴に微笑んでみる。気にしないでいいよと伝えたかった。けれど、どれだけ笑みを浮かべても、杏鈴の目に映るのは、玲蘭でしかなくて――。


「ほ、他の方々にももっとお部屋に来るように言っておきます!」

「そこまでしなくても大丈夫よ」


 というか、それはそれで疲れるししんどいなと、思わず苦笑いを浮かべてしまう。そんな葉月の言葉に杏鈴はハッとしたように頭を下げ、それから「失礼いたしました」と、怯えた声で言った。

 余計なことを言えばどうなるか、その身に染みているようで、不憫にさえ思えた。


「もう、下がっていいわ」

「え……?」


 戸惑うような声を漏らしたあと、慌てて「失礼致します」と言って、部屋をあとにする。

 玲蘭の気が変わらないうちに、とでもいうかのように。


 扉が閉まると、部屋に静寂が広がる。

 ふう、と息を吐くと、葉月は机の上に置かれた香炉の前に座った。身体が自然に動く。玲蘭の記憶と、葉月の過去が重なる。


 乳鉢を手に取り、白檀を砕く。

 甘い香りに、沈香を重ねると、龍脳を少しずつ加えていった。


「うん、いいバランス」


 自分だけの香りを作り上げていく。


 この香りは、玲蘭のものではない。

 悪意は微塵たりとも含まれていない、純粋な優しい香り。


 けれど、葉月だけでは出せなかった香りだ。玲蘭の記憶を頼りに作った、葉月の思いが込められた香り。


 名もない練り香をそっと香炉に置きながら、葉月は思う。


 玲蘭は、人を傷つけることでしか生きられなかった。

 けれど葉月は、他人に傷つけられながら生きてきたからこそ、誰も傷つけず、ただ静かに生きたい。


 その香りは、そう願う自分自身の、かすかな祈りのようだった。



 翌日、いつものように香木の香りにうっとりとしていると、慌てた様子で杏鈴が部屋に飛び込んで来た。


「れ、玲蘭様、失礼致します」


 息を切らせた杏鈴は、青い顔をしていた。


 結局、他の侍女が顔を出すことはなく、今日も杏鈴だけだ。その事実に杏鈴も気づいているからか、気まずそうな表情を浮かべつつ、けれどそれどころじゃないとばかりに香炉の前に座る玲蘭の元へと膝をつく。

 

「どうしたの?」


 その様子に、葉月は不安を覚えながらも問いかける。

 葉月の質問に、杏鈴は唇を震わせた。


「太監様がいらっしゃっています!」 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る