第2話 私だけの香りに染めていく

「この服にも、慣れないなぁ」


 ヒラヒラとした襦裙じゅくんと呼ばれる服の袖を指先で摘まんだ。

 この世界のことは全くわからないけれど、ドラマで見た古代の中国に似ている気がする。


 最近、仕事が終わって家に帰ってからも、疲れているはずなのに全く眠ることができず、深夜ドラマを流し続けていた。ドロドロしているとはいえ、職場で上司から怒鳴られることも感情を消して押したくもない商品を押し続けなければいけない日々を思えば、煌びやかな服を着て暮らすだけの彼女たちはどれだけ幸せなのだろうかと思っていた。


 そんな世界に転生して、しかも転生先の身体の持ち主である玲蘭は調香を趣味だという。この幸運を、活かさないわけにはいかない。

 葉月は部屋に備え付けられた棚から、沈香を手に取る。顔に近づけて思いっきり息を吸うと、肺いっぱいにスパイシーさと深みのある香りが広がる。


「うふふ、うふふふふ」


 酒に酔うというけれど、どうやら今の葉月は香木や香草といった強い香りに酔ってしまう体質になってしまったみたいだ。そんな体質があるかは知らないけれど、現に玲蘭としてこの世界で生きるようになってから、強い香りを嗅ぐと、顔が熱く火照り、ふわふわとしたいい気持ちになってしまう。


 先ほどの干し葡萄も危なかった。あれが干しておらず、生の瑞々しさあふれる葡萄であれば危険だったかもしれない。いや、干し葡萄でも十分ふわふわとした気持ちになれてしまったけれど。


 とはいえ、困りはするけれど、実害はないのでまあいいかと放置している。


「はあぁ、それにしても素敵なものがいっぱい。こんなにもたくさんの香木に囲まれて生活できるなんて……」


 沈香に白檀、竜脳に小さいけれど竜涎香りゅうぜんこうまであるなんて。


「すごすぎる……ホント幸せ……」


 いくら玲蘭がいいところのお嬢様だったとはいえ、この量の香木を買い与えてしまう実家ってどれほどの規模なのだろう。


「私の年収じゃ無理だ……」


 現代でだってとてつもない金額になりそうなのに、この時代であればさらに高額になるのでは……?

 それを思う存分使って調香できるこの状況は、葉月にとって天国と言わずなにというのか。死んでから天国に来られるなんて、前世の行いがよかったに違いない。あの限界を生きていた社畜の日々も、このために徳を積んでいたと思えば、頑張ってよかったとさえ思えるから不思議だ。


 これからここで生きていくということに不安がないとは言えない。でも、何もかも自由にならなかった葉月だった頃を思えば、玲蘭という悪女の皮を被らなければいけないとはいえ、好きなことだけをしていられればいいと思えば、これはこれで素敵なセカンドライフなのかも知れない。


「そう、ここで生きていくんだよね」


 葉月は室内を見回す。服の趣味だとか部屋の雰囲気だとか、玲蘭と葉月では真逆なところがあるけれど、それは受け入れるしかないと諦めていた。


 でも、ひとつだけ。


「香の趣味、悪いって!」


 三日間、頭が痛いながらに我慢してきたけど、やっぱり無理なものは無理だ。

 窓という窓を開けて空気の入れ換えをすると、棚からいくつかの香木を手に取った。


 例えるなら玲蘭の好んでいた香りは、エキゾチックでゾクゾクさせるような香りだ。白檀に異国の香辛料でも忍ばせたのだろう。雰囲気のある香りではあるけれど、葉月の好きな香りではない。


 エレベーターの中で遭遇しただけとか、一泊二日で泊まるだけ、とかなら我慢もできたかもしれないけれど、これからずっととなれば好ましくない香りの中で過ごしたくない。なんなら香りの洪水に、頭さえ痛くなってくる。


 好きな香りを繰り返し調香してずっと炊き続けるのもいいけれど、それだと普通すぎて面白くない。せっかくなら香りの変化を楽しみつつ、自分だけの香りに包まれていたい。


「うーん、部屋の香り……ルームフレグランスみたいな。アロマデュフューザーとか?」


 ひとり呟いて、それから名案だと手を打った。


「あ、でも、精油は……見当たらないんだよね」


 玲蘭ほどの実家がお金持ちでも持っていないということは、月華国ではまだ精油の技術がないのかもしれない。精油がなければアロマデュフューザーを作ることはできない。

 と、なると。


「これ使えそうかも?」


 箪笥にあった麻布をいくつか取り出した。棚から桂花と甘松、それから白檀の欠片を手に取り、丁寧に細かく刻む。ふわっと香る匂いにテンションが上がる。


「ふふふ、いい匂い」


 刻んだ香木などを乳鉢に加えると匙でそっと混ぜた。あとは麻布に入れて口を縛れば完成だ。

 玲蘭も使っていた白檀だけれど、同じ香木を使っても使い方次第で全く香りが変わる。今もほら――。


「うん、甘くて優しい香り」


 桂花のふんわりとした甘さが優しく香った。秋に咲く金木犀のように上品でどこか懐かしい、葉月の好きな香りだった。


 同じようにあと三つ作ると、それを窓際とベッドの近くに吊るした。これで少しずつ、でも自然に部屋の香りが変わっていくはずだ。


 今の香りはトップノートのよう。まだ固く、本来の草木の香りしかしないけれど、やがてミドルノート、ラストノートと変化していくうちに、ここで生きる葉月の香りと混ざり合い、世界にひとつしかない香りへと変化していく。


 その頃には、この部屋の香りは玲蘭のものから、葉月のものへと変わっているだろう。

 ここでの暮らしに慣れるには、まだしばらく時間がかかりそうだけれど、部屋で過ごす時間は少しだけ葉月の心を安らげるものになりそうだ。

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