第4話 虚血

 今日も整骨院で、鍼灸師としてバイトしている。

 この整骨院には、院長以外に鍼灸師の資格を持っている人がいない。しかも院長は分院を建てて金儲けすることに忙しく、ほとんど顔を出さない。なので、実質的に俺が唯一の鍼灸師ということになる。

 実は、整骨院で施術を行うための国家資格である柔道整復師と、俺の持っている鍼灸師は、まったく別の資格だ。


 この整骨院は、大阪市の十三じゅうそうという駅の近くにある。大阪に慣れていない人だと、まず読めない駅名だろう。

 大阪の中心街・梅田から阪急電車で二駅。それなりに栄えている町だ。

 俺も歩いて十分快のところに住んでいるので、通勤には非常に便利だ。今日出勤しているのは、武部さんと矢野さんか。


 武部さんは気のいい青年で、矢野さんは同じく人当たりのいい若い女性だ。


 ちなみに矢野さんは右腕の筋肉だけがアンバランスに発達しているから、五十メートル先にいても一目で分かる。

 結構本格的にテニスをやっているらしいのでそれが原因だろう。


 そんなことを考えていると、矢野さんが話しかけてきた。


「ヒノくん、今日はずっといるのー?」

「はい、裏で待機してますんで。手伝うことあったら言ってください」

「やった! 今日は昼ご飯食べに行こうよ!」


 駅の東口にできた二郎系のラーメン屋に行きたいらしい。確かに、あの店は女性一人だと入りにくいだろうな。

 ちなみに俺は月一くらいで通っている。あの店は汁なしが絶品なんだよなぁ。ニンニク抜きでいつも頼んでいる。


 雑談相手の矢野さんがお客さん対応で表に出ていったので、暇になる。

 鍼のオプションサービスは今月始めたばかりなので、あまり呼び出しがかからない。

 俺の役割は、基本的に裏で電話番をしているだけだ。

 もっとも、整骨院に予約の電話が頻繁にかかってくるわけでもない。ここはネット予約が主流だし、常連さんはだいたい施術後に次の予約を取っていく。


 勉強をしながら昼前の時間を過ごしていると、矢野さんがバックヤードにやってきた。


「ヒノくん! そろそろ中休みにしてラーメン行こうよ!」

「いいですね。行きましょう」


 そんなやり取りをしていると、武部さんもバックヤードに入ってくる。


「なになに? ご飯行くの? 僕も連れてってよー」


 武部さんは、たぶん矢野さんに好意を持っている。

 まぁ、この恋路は実らないだろうな。

 武部さんは知らないかもしれないが、彼女はイケメンの彼氏と同棲している。


 案の定、今回もあっさり断られた。


「武部さんは、昼休みの間の留守番をしてくれる約束でしょ」

「まぁ、そうなんだけど……それはそれとして、ヒノくんに用事があってさ」


 どうやら、武部さんには本題があったらしい。

 左上腕の内側に痛みを訴えている患者さんがいるが、筋肉にはまったく異常が見つからないという。

 話を聞く限り、確かに変な症例だ。

 腕の痛みといえば、上腕二頭筋か上腕筋あたりがまず疑われるが、ベテランの武部さんが見落とすとは思えない。


 又聞きで話を聞いていても仕方がない。見に行くか。

 三人そろって、患者さんのいるベッドへ向かった。


 痩せ気味の中年男性だ。確かに、腕の筋肉には目立った問題はないように見える。それでも、かなり痛そうな声を出している。

 神経の問題だろうか。

 触診しつつ、意識的に透視能力の焦点を深く設定し、腕の周囲を確認していく。


 肩の三角筋、僧帽筋に異常はない。ローテーターカフと呼ばれる肩関節を支える筋肉群も問題なし。

 首はやや凝り気味だが、致命的な所見ではない。


「原因……なんですかねぇ?」


「ヒノくんでも分からないの? 困ったなぁ」


 なんだろう。筋肉が原因じゃないとしたら、神経痛だろうか。

 肩や首というのは神経の交差点で、別の場所の痛みが現れることもある。そういうのを専門用語では放散痛という。放散痛は、だいたい内臓が原因だ。


 胸の奥、心臓のあたりにまで視線を沈めた瞬間、俺はハッとした。


 心臓の一部だけが、妙に暗い。

 規則正しく動いているはずの筋繊維が、そこだけ濁った色に沈み、血の流れが途切れているのが分かる。

 拍動はある。だが、十分に動いていない。

 ――これ、詰まってる。


「この痛みは、いつからですか?」


 患者さんは激痛で喋りにくそうだ。


「三十分前からです。ここの予約が直前で取れたので、受診しました」


 そういえば、その電話を取った記憶がある。武部さんが暇そうだったので、この時間を案内したんだった。


「これは、ウチでは診られません。医者を紹介します。少し待ってください」


 即座にスマホを取り出し、同じ商店街にある内科へ電話をかける。繋がらない。昼の休診時間か。

 緊急事態だ。医師の私用携帯にかける。


「夏目先生、日野です。昼休みにすみません。急患を受け入れてほしいんですが」

「おっ、ヒノくん。久しぶりだね。医大に入ったらしいね。どんな症状だい?」

「おそらく、AMIの疑いです。三十分前から左腕に放散痛があります」


 電話の向こうで、息を呑む気配が伝わってきた。


「……君が言うなら、そうなんだろうね。すぐ来てもらわないとまずい。心エコーと心電図を準備しておく」


 俺は医師ではない。断言はできない。あくまで「疑い」だ。

 それでも、理解してもらえたようだった。


 電話を切り、武部さんに担架の準備を頼む。ここから内科までは百メートルほど。担いで行った方が早い。


 患者さんが、不安そうに聞いてきた。


「あの……AMIって、なんですか? このあと歯医者の予約があるんですが……」


「ダメです。今すぐ行ってください。あなたは心筋梗塞という、非常に緊急性の高い病気の可能性があります。命に関わります」


 患者さんの顔から血の気が引いた。

 それを聞いた矢野さんの表情も、一気に硬くなる。


 半ば無理やり担架に乗せ、武部さんと二人で商店街を走る。

 内科のクリニックは、すでに扉を開けて待機してくれていた。


 奥へ運び込んだ瞬間、夏目先生は心エコーを当て、ほとんど迷いなく救急車を要請した。

 心筋梗塞は、時間との勝負だ……助かるか。


 夏目先生は、真剣な表情で心電図を見つめている。

 心エコーで心筋梗塞の有無を確認し、心電図でタイプを判別する。心筋梗塞には大きく分けて二種類あり、治療法も微妙に違う。


 俺は医学生といっても一年生だ。見ても、正直何も分からない。


 ほどなくして、救急車がクリニックの前に到着した。


「ヒノくん、留守番頼むよ!」


 そう言って、夏目先生は救急車に同乗していった。


 残されたのは、鍵の開いた無人のクリニック。

 ……仕方ない。俺が頼んだことだ。留守番をするか。

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