第3話 妖怪鍼男
患者さんとの相談は武部さんに任せて、バックヤードに戻る。
十センチの鍼は、かなり長い部類に入る。腸腰筋は基本的に腹側からアクセスする筋肉で、今回のお客さんは皮下脂肪も厚めだ。長い鍼の方が適しているだろう。
実は日本では、鍼は原則として使い捨てのものを使用することになっている。
鍼というのは非常に細い。俺がよく使う二番という鍼は、一般的な髪の毛よりもかなり細い。
準備をしていると、武部さんがバックヤードに入ってきた。
「さっきのお客さん、鍼をお願いしたいってさ。頼むね!」
俺はベッドの脇に、機材を乗せたトレーを置く。
一般に、日本の鍼は中国の鍼に比べてかなり細いとされている。これは、日本で発明された鍼管という道具が広く使われているためだ。
お客さんは初めての鍼らしく、表情が少し強張っている。
「大丈夫ですよ。国家資格を持った鍼灸師ですから、安心してください」
もちろん、鍼にはリスクもある。筋肉を狙って打ったつもりが、内臓に達してしまったら大変だ。
そうした危険性もあって、体の深部にはあまり鍼を打たない鍼灸師も多い。解剖学的に位置が確立され、経験的に安全とされている場所にしか打たない、という考え方だ。
だが俺には、狙うべき筋肉がはっきりと見えている。
この呪いとも言える能力を活かせる職業として選んだのが、鍼灸師だった。正確には鍼師だが。俺は基本的に、お灸はしない。
腹部に鍼管を置き、鍼をトントンと進める。
鍼は臓器を避ける角度で進み、短縮している腸腰筋へと到達した。
その瞬間、お客さんの身体がビクンと小さく跳ねる。
「なんか……今、体の奥にドンって衝撃が来ました。そのあと、じわっと暖かくなる感じがします」
鍼が効く理由はいくつかあるが、今回は深部筋への刺激によって筋肉の反射が正常化した結果だ。
硬結と呼ばれる筋肉のコリが解け、血流が一気に改善したのだろう。
俺の目にも、鍼が深部の筋肉に刺さった瞬間、組織が大きく反応するのがはっきりと見えた。
こういう瞬間を実感できるのは、正直言って嫌いじゃない。
反対側の腸腰筋にも、同じように鍼を打つ。こちらは片側ほど重症ではないが、バランスを整えるなら両方やるのが鉄則だ。
鍼を抜き、お客さんに立って歩いてもらう。
「……二本の鍼だけで、十年悩まされていた腰痛がなくなってる。どこの整骨院に行っても治らなかったのに……」
武部さんが、なぜか自慢げに胸を張る。
「この子は天才なんだよ。春に免許を取ったばかりだけど、俺が知る限り最高の鍼師だ。院長ですら敵わない」
さすがに恥ずかしくなって、俺はそそくさとバックヤードに戻った。
結局、鍼は二本しか刺していない。そもそも、二本しかベッドサイドに持っていかなかったのだが。
筋肉というのは不思議なもので、適切な位置に一本の鍼を打つだけで酷い萎縮がすぐに治るのだ。
もっとも、あの患者さんは生活習慣が原因だ。このまま何もしなければ、いずれ再発するだろう。
そのあたりは、武部さんがストレッチや姿勢改善について丁寧に説明しているはずだ。
彼も、得意分野が違うだけで立派なプロだ。
柔道整復師と呼ばれる、手技療法の専門家でもある。
俺が一気に治すプロだとすれば、彼はゆっくり治し、再発を防ぐプロ――そんな役割分担だろう。
後のことは武部さんに任せ、俺はバックヤードに戻った。
四時間ほどのバイトを終えて家に帰り、寝巻きに着替えていると、ゴソゴソと音がして壁の穴から飼い猫のファシアが顔を出した。
「ただいま、ファシアちゃん」
「ニャン!」
ファシアはベッドに飛び乗り、すでにマッサージ待ちの姿勢だ。
仕事から疲れて帰ってきたご主人を労る気配は、微塵もないらしい。
触ると、体はほんのり暖かい。きっと遊具で遊んでいたのだろう。
留守中も退屈しないよう、この部屋にはいろいろと用意してある。
俺の目に映るファシアの筋肉は、健康そのものだった。
ただ、ほんの少しだけリンパの流れが滞っているように見えた。
なので、軽くリンパマッサージをしてやる。
動物にも血液とは別にリンパ液が流れていて、老廃物を集め、最終的には体外へ排出する仕組みになっている。
リンパマッサージは、末端から体の中心に向かって行うのが基本だ。
「ニャ……」
気持ちがいいのか、目を閉じて喉を鳴らしている。
一通り終えると、ファシアは俺のベッドのど真ん中で爆睡していた。いつものことだ。
この子用のベッドも用意してあるのだが、そこで寝ているところは見たことがない。
仕方がないので、起こさないように、そっとタオルをかけてやった。
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