第2話 バイト先

 生暖かく、ザラザラした感触で目を覚ますと、ネコの顔が間近にあった。

 うなされていた俺を心配してくれていたらしい。俺の鼻をぺろぺろ舐めて起こしてくれた。


「ファシアちゃん、おはよう」


「ニャン!」


 ファシアは2歳になる女の子だ。都会で一人暮らしを始めて、思った以上に寂しかったので飼い始めた。

 この子を迎えるために、このアパートを選んだ。ここは都会では珍しい、ペット可の物件だ。


 ご飯をあげた後、俺の膝に乗ってきて、胸をテシテシと叩いてくるファシア。

 この子には、普通のネコと少し違った特徴がある。それは、『マッサージが大好き』だということだ。


 リクエストに応じてマッサージをしてやる。

 まず、彼女のお気に入りのタオルをベッドに敷き、優しく仰向けで寝かせてあげる。

 キラキラした、期待に満ちた目で俺を見ながら、手足を動かしている。かわいい。

 脊柱の横あたりを指で押し、ゆっくりほぐしていくと、尻尾をフリフリさせて喜んでいる。


「お客さん、今日も元気ですね!」


「ニャッ♪」


 俺は昔から、部屋で人形を使ってマッサージの練習をしていた。

 この子はそれを見て、自分もしてほしくなったらしい。

 今では、この子は毎日マッサージを要求してくる。愛猫との貴重な触れ合いの時間だ。


 実を言うと、このマッサージには実用的な意味はほとんどない。

 若いネコは、基本的にマッサージは不要だ。体は柔らかく、常にストレッチしているようなものだ。

 まあ、この子はスキンシップが好きなんだろう。


 俺のマッサージに身をよじらせて鳴いていたファシアだったが、急に真顔になり、ベッドから飛び降りてキャットタワーで遊び始めた。

 ネコというのは気まぐれだ。そこがいいところでもあるんだけど。


 

 さて、今日は土曜日だ。

 でも、ずっとファシアと遊んでいるわけにはいかない。バイトに行かないといけないからだ。


 最近の俺は忙しい。

 平日の昼は大学、夜は仕事。休日は整骨院でのバイトだ。


 土日は、整骨院で鍼灸師として働いている。

 というか、それが収入のメインになっている。開業している鍼灸院は正直赤字で、ほぼ稼働していない。

 ちなみに、仕事場の隣の部屋が、俺の住んでいる部屋だったりする。


 そろそろバイトに行く時間だ。

 出かける前にファシアとスキンシップをしようとしたが、壁に開けた小さな穴を使って、隣の部屋へ行ってしまっているようだ。


 大家の許可を取って、部屋の壁に小さな穴を開けている。

 そのおかげで、家と仕事場をファシアは自由に行き来できる。

 あっちの部屋は完全な事務スペースだ。書類と机が置いてあるだけなので、彼女が向こうで何をしているのかは謎だった。


「ファシアちゃん、お仕事行ってくるから留守番よろしくね」


「……ニャッ」


 穴に向かって話しかけると、壁の向こうから小さな返事が聞こえた。

 ゴソゴソと物音がして、ファシアが小さな穴から顔だけ出す。俺の方を見ながら鼻をヒクヒクさせている。この横着者め。

 ファシアの頭を撫でた後、バイト先の整体院へ向かった。


 三月に鍼灸師養成の専門学校を卒業し、四月からは昼は大学生、夜は鍼灸師として働いている。

 仕事はそれほど多くない。裏で待機していて、呼ばれたら出る感じだ。

 俺は、整体のオプションみたいな立ち位置になる。


 施術室に、一人の整体師が入ってきた。

 武部さんだ。非常に人当たりが良く、人気の整体師でもある。


 ちなみに、武部さんとはもう二年近い付き合いだ。

 鍼灸師の資格を取る前から、この整骨院でバイトしていた。


「ヒノくん。腰痛が主訴のお客さんなんだけど、腰まわりの筋肉に異常が全然ないんだ。見てあげてくれない?」


 武部さんは、中年の男性客に俺を紹介する。


「この子はヒノ。凄腕の鍼灸師で、医学生でもあるんだ。お医者さんの卵だよ」


 少し、照れくさい。


 実は俺は、専門学校を卒業した後、府内にある私学の医学部医学科に通っている。

 鍼灸師になるために勉強する中で、医者になりたいという動機が芽生えたからだ。


 患者さんを見る。太り気味の男性だ。デスクワークが多いのだろう。猫背が目立つ。

 腰が痛いという主訴なので、そのあたりをゆっくり眺める。

 うーん、表面の筋肉には特に大きな萎縮はなさそうだ。

 一応、プロである武部さんが徹底的にマッサージしただろうし、当然か。


 目の焦点を、少しだけ調整する。

 その奥にあるインナーマッスル、腹膜、内臓なんかが見えてくる。


 一番目につくのは肝臓だ。明らかに脂肪肝。パンパンで、人間版フォアグラみたいになっている。


 そんな、どうでもいいことを考えながら、腹膜を囲うように存在するインナーマッスルを一つずつ眺めていく。

 小腰筋、大腰筋、腸腰筋。


 どれも縮んでいるが、一番ひどいのは腸腰筋だ。

 腸腰筋が短縮することで、他の筋肉もアンバランスになっているのだろう。


 筋肉、腱、骨は、一つ一つが繋がった巨大な構造物だ。

 一つがおかしくなれば、周囲すべてに影響が出る。


 この人の筋肉には色々と問題はあるが、鍼で緩めるのは腸腰筋だけでいい。

 他の筋肉は、ここを緩めれば自然と改善しそうな範疇だ。


 腰にある大きな筋肉群を一気に緩めると、血流が下半身に集まり、貧血を起こす可能性もある。


 見ただけで原因は分かったが、一応腰を触診する。

 そうしないと、患者さんは納得しない。


 患者さんに聞こえないよう、小声で武部さんに伝える。


「原因、腸腰筋の萎縮っすね」


 腸腰筋は、体の奥深くにある筋肉だ。

 骨盤の奥に位置していて、基本的にマッサージではアクセスできない。


「それは……マッサージじゃほぐすのは無理だな」


 患者さんに立って歩いてもらう。

 猫背が目立つが、反り腰の症状も出ている。

 歩幅が短い。腸腰筋は脚を持ち上げる筋肉だからだ。

 萎縮すると、こういう歩き方になる。


 原因は、運動不足だろう。


「ヒノくん、腸腰筋に鍼でアクセスできるかい?」

「少し長いのが要りますが、十センチのやつならいけると思います」


 小声で、患者さんに聞こえないように話しているのには理由がある。

 俺みたいな鍼灸師は、患者に向かって原因を伝えることはできない。

 もちろん、武部さんのような柔道整復師も同じだ。


 こういった行為は『診断』と呼ばれる。

 これは医師にしか許されていない行為で、その中でも『絶対的医行為』と呼ばれる特別なものだ。


 だから、整体では「張ってますね」とか「固いですね」といった、曖昧な説明が多くなる。

 具体的な病名を告げられることは、まずない。

 それは柔道整復師の知識が足りないからじゃない。法律の問題だ。


 というわけで、原因が分かっても、それを患者に直接伝えることはできない。

 もどかしい思いをしながら、あとの説明は武部さんに任せ、俺はバックルームへ戻った。

 

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