昼の海を渡る音
yuyu
第1章 朝、群青のなかで
海は、朝よりも昼に近い色をしていた。
港町の空はすでに高く、薄い雲が引き延ばされたように流れている。夜明けの名残はどこにもなく、代わりに、これから始まる一日の輪郭だけがはっきりと見えていた。
海沿いの通りに、小さなパン屋がある。
白い壁に、群青色の扉。塩気を含んだ風にさらされて、木枠の塗装はところどころ剥げている。それでも、店の佇まいは不思議と穏やかで、通りを歩く人の足を一瞬だけ止めさせる力があった。
看板には控えめな文字で、「群青ベーカリー」。
蒼(あお)は、開店前の店内でオーブンの前に立っていた。
焼き上がりを知らせる低い音に合わせて扉を開けると、熱と一緒に、香ばしい匂いが広がる。小麦の甘さと、ほんのわずかな焦げの匂い。それに、扉の隙間から入り込んでくる潮の気配が混ざる。
この匂いを嗅ぐと、胸の奥が少しだけ緩む。
理由はわからない。ただ、今日もここに立っていられる、という事実だけで十分だった。
焼き上がったパンを一つずつ取り出し、カウンターに並べる。
形も焼き色も微妙に違う。完璧ではないが、それぞれが今の温度をちゃんと持っている。
扉の脇に吊るされた小さな風鈴が、海から吹き上げる風に揺れた。
澄んだ音がひとつ、短く鳴る。
蒼はその音を聞き、ほんの一瞬だけ手を止めた。
朝のたびに鳴るはずなのに、この音だけは、いつも少し違って聞こえる。合図のようでいて、何かを呼び止める声にも似ていた。
開店の札を出し、扉を開ける。
昼に向かう光が店内へ流れ込み、パンの表面に淡い影を落とした。
しばらくして、通りの向こうに人影が現れた。
海を背に、立ち止まっている一人の女性。旅の途中のようにも、戻ってきた人のようにも見える。蒼は理由もなく、その姿が気になった。
女性はしばらく看板を見つめ、それから意を決したように扉に手を伸ばす。
風鈴が鳴る。
「……おはようございます」
声は静かで、少しだけ張りつめていた。
肩にかけた鞄は使い込まれ、手には小さな紙包みが握られている。
「おはようございます。どうぞ」
蒼がそう言うと、女性はほっと息を吐き、店内を見渡した。
パンの香りに包まれた瞬間、表情がほんのわずかに緩む。
「ここ、初めて来ました」
「ありがとうございます。今朝、焼き上がったところです」
女性は頷きながら棚を眺めたが、視線はパンそのものより、店の奥へと向いているようだった。何かを探している、というより――何かを確かめているような目だった。
「……選ぶの、あまり得意じゃなくて」
そう言って、女性は小さく笑った。「でも、今日はどうしても、誰かに渡したくて」
蒼は詳しい事情を聞かなかった。
この店には、そういう“途中の気持ち”がよく訪れる。
「迷ったら、今の気分に一番近いものを選んでください」
蒼はそう言って、棚の一角を指した。「パンって、不思議と嘘をつかないので」
女性はしばらく考え、丸いパンを一つ手に取った。
そして、ためらうように紙包みを開く。
中から現れたのは、小さな花束だった。
乾いてはいるが、丁寧に束ねられている。色は少し褪せているのに、雑に扱われた形跡はなかった。
蒼は何も言わなかった。
その花がここに来るまでの時間を、ただ静かに想像する。
「……遠くの街で、もらったんです」
女性はそう言って、花を包み直した。「結局、その人には渡せないまま」
蒼はレジの向こうで、ゆっくりと息を吸った。
渡されなかったものが、ここまで辿り着くこともある。
それだけで、この朝は十分に意味を持っていた。
会計を終え、パンを手渡すとき、蒼は言った。
「ここまで一緒に来られたなら、きっと大丈夫だと思います」
女性は驚いたように蒼を見て、それから、ほんの少しだけ笑った。
何かがほどけたような、でも、まだ途中にある笑顔だった。
店を出るとき、風鈴がまた鳴った。
今度は、さっきよりも柔らかな音だった。
蒼は扉を閉め、店内を見渡す。
海の光、パンの香り、通りを行き交う人々の気配。
ここから、また物語が始まる。
誰かに渡されなかった想いが、別の場所で、別の形で、静かに動き出す。
昼の海は、すぐそこにある。
白く、逃げ場のない光を抱えながら――それでも、確かに続いていた。
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昼の海を渡る音 yuyu @yuyu222324
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