第6話 怒りの底に潜むもの

 武は30分以上診察室に入っていた。

 比較的シャキッとした表情で出てきた。色々嫌な気分を先生に話せてスッキリしたのかなぁ。


「どうだった? けっこう長い診察時間だったね。思ってること話せたの?」

「うん、そうだね」と武。

「で、先生は何て言われたの?」

「ンー……高校の仕事はしばらく休んだほうが良いんじゃないかって」

「そっかぁ。病名って……今日の時点で分かるの?」

「まだ分かんないって。でも処方箋はもらったよ。精神安定剤ね。俺、校長に会って話すよ」


 少し名帆は前向きな気持ちになれた。はっきり言って、武をもう愛していない。でも、だからと言って不幸になれ、とは思わない。元気になったら良いなと思う。


 駅で二人は別れた。

「今日は本当にありがとう、名帆。帰り気を付けてね!」

「うん」


 その夜ずっと名帆は考えあぐねていた。

 武に「もう会わない」と言い出すタイミングだ……。

 一生懸命武なりに、元気になろうと頑張り始めた彼を今見離すような事をしたら……自暴自棄になりはしないかと心配するのだ。

 我ながら、お節介なたちだなーと自分のことが悩ましい。


 自分は武に「別れたい」と告げたが、未だ面倒を見ているというか中途半端な感じだし、いくら自分が由奈さんに淡い恋心を持っていようとも、由奈さんも同じ気持ちだとは限らない。

 由奈さんに甘えられない……。でも、いちばん素直に甘えたい人だ。由奈さん……。


 そうしてまた1週間が過ぎ、今日は由奈さん宅の家事援助の日だ。


 先週に比べれば元気な気持ちを持てる名帆。武が治療に取り組み始めたことが大きい。


 ピンポーン……。「こんにちは~。松田です!」

 ガチャリ!

「こんにちは、名帆ちゃん、今日もよろしくお願いします」

「はい、由奈さん」

「名帆ちゃん、先週より表情が明るくて安心しました」

「あ、ありがとうござます! 今日はお掃除どこから……?」

「あ、今日はおトイレから始めてください。そのあとはキッチンの掃除機掛けと床拭きをお願いします」

「承知しました!」


(まずはトイレ掃除、っと。がんばれー、あたし!)


「じゃ、僕はデスクに居るので、何か分からないことなどあったらいつでも訊きに来てね!」

 穏やかな笑顔の由奈さん。

 やっぱり癒されちゃうなー……。

「はい、由奈さん」


 おトイレ掃除が終わりかけたころ……ピンポーン。


「あ、大丈夫だよ。名帆ちゃん、僕出るからね~」と仕事部屋から大きな声で由奈さん。

「ハーイ!」


 あともう少しで完了だわ……!


 ……え!? 言い争う声?

「おい! 名帆! 居るんだろ。出て来いよ! このアバズレがっ!」

 武だ。

 何でここが?

 わからないけど……「辞めて下さい! 乱暴な声を出すのは」と、必死で説得する由奈さんの声が聞こえてくる。

(いけないわ! 由奈さんがおケガでもされたら大変!)


 使い捨て手袋をすぐにごみ箱に捨て、玄関に出る名帆。


「何しに来たの?! 武?!」

「ハ~? 何しに来たの! じゃねえわ! お前この男としてるんだろ?!」

 何て事を!

 あったまに来た名帆。


「名帆ちゃん恋人なのかい?」

 動じずゆったりと名帆に尋ねる由奈さん。

「は……はい。でも『別れたい』とは伝えています」

「な~にが『恋人かい?』だ! てっめぇ! 気取りやがって!」


 武が車椅子の由奈さんに殴りかかった瞬間、名帆が盾になった。

 その瞬間出した拳を引っ込める武。


「何なのよ?! 殴りたければ殴りなさいよっ! あたしを!」大泣きの名帆。

(もう、もう、ああ、感情が抑えきれない!)

「あんた、武! あたしに何したと思ってんの? また言わせる気? 赦さないからね!」


 武は項垂れている。しかしそれは一瞬でまたすぐに顔つきが変わった。

「っるっせーわっ!」物凄い怒声が響く。

「名帆、お前は引っ込んでろ! どうせこの男がたぶらかしたんだろ?! あ!?」


 ガン! ガン! ガンッ! 車椅子のタイヤを執拗に蹴りつけるクズがここに居る。


 勤勉に高校で働いていた。真摯に教育に携わっていた。手に負えない生徒はどうしたものかと、真剣に頭を悩ませる武だった。

(こんなに悲しい変容がある? いったい何の病なのよ?!)


 由奈さんは「武さん、辞めるんだ!」と必死で言う。

 決して武を罵ったり野次ったりせず、説得しようと懸命だ。


 足にハンディのある人に! その人の足代わりの車椅子に! 蹴りを入れるなど言語道断だ!

 そして、またも武は車椅子に乗っている由奈さんに襲い掛かろうとする! 名帆が必死で止めにかかった。


「ほらな! これって惚れてる証拠だよな。な~! 名帆、吐けよ。お前が言ってた好きな人ってコイツだろ?」


「違います」


 悔しかった。悲しかった。でも、この状況でそう言うしかないじゃないか。でないと由奈さんが武に何をされるか分かったもんじゃない。


 名帆の言葉を聴き入れない武。

「へ~、こんなさ、ずーっと座ってる男がカッコいいわけ?」

 怒りがこみ上げ震え出す名帆。


 流石の由奈さんも堪忍袋の緒が切れてしまったのだろうか。

「立てますよ」そう言ってゆっくりと片足立ちし、サッと壁に手を突きバランスを取った。

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