第5話 分岐点

 名帆のお人よしが顔をのぞかせてしまう。

 予定していた再度の別れ話はどこかへ行ってしまった。


「そうなのね、武」

 武はまたいつかのように泣き出してしまった。

「御免なさい、御免なさい、御免なさい……」

「謝って済まないことがあるのよ、武。病院へ行きましょう」

「……え?」

「あなたは、きっと心の病気だわ。治療が必要よ」

 すると武は猛烈に嫌がった。

「俺が精神障碍者だっていうのか? 冗談じゃないぜ。俺はまともさ!」

「武、自分でさっき言ったでしょう。『何であんな風に豹変してしまうのか自分でも分からない』って」

「……。」

 名帆は、ほっとけなかった。

「あたしが付き添うから、ね! 学校をしばらく休むのよ」


 名帆がヘルパーとして入っているご家庭は由奈さん以外にもある。名帆は仕事を休むわけにはいかない。

「武、申し訳ないけど初診日はあたしの休日に合わせてね」

「……。分かったよ」


 次の週、2週間ぶりに名帆は由奈さんのサービスに入った。

 とても……辛い。(あたしは今、この人に甘えたい)と正直言って思った。

 洗いざらい話を聴いてほしい。告白だってしたい。


「こんにちは、由奈さん」

「名帆ちゃん、北田ヘルパーさんから聞いたよ? 頭痛は大丈夫かい?」

「はい、すぐに詳細な検査もして脳に異常がないことが分かり、痛み止めで良くなりました。心配をおかけし申し訳有りません……」ペコリ。

 ポニーテールもなんだかしょんぼりしている今日の名帆。とてもいつものように振る舞えない。


「名帆ちゃん、今日、お掃除はしなくて良いです。お料理だけをお願いします」と言う由奈さん。

「え」

「きのう、丁度よその事業所のヘルパーさんの日だったんだよ。だから……ね。クリームシチューを食べたいな。冷蔵庫に材料があります」

「はい……」

 今日はパソコンに向かわずに、キッチンで名帆を見守っている由奈さん。

(これじゃあ、あたしがヘルプしてもらってるじゃない)

 でも、その時ハッとした、名帆は。


(このお仕事、あたしがいつも利用者様に助けられていたんだ。いつも、いつも「ありがとう」をもらって「笑顔」をもらって、勇気づけられ、あたしが明るくいられたのは、サービスの提供先というあたしの居場所があるからだわ)


 そんなことを考えつつ、懸命にジャガイモの皮をむく。ヘルパーだが名帆はスライサーが使えない。昔大けがをしたのがトラウマになっている。その代わり包丁で何だって皮をむくし、魚もさばける。


「名帆ちゃん……」突然優しく温かい、由奈さんの声。

「はい」

「名帆ちゃん、辛いときは辛いって言って良いんだよ」

「はい……」

 玉ねぎをむき始めた。名帆の瞳からボロボロと涙が流れ落ちた。

 何があったか、とかそういうことを無理に聞き出そうとはしない由奈さん。

(なんて、心を配れる人だろう……)


 クリームシチューはあっという間にできてしまった。まだまだサービスの時間はある。


「由奈さん、お掃除をしなくて良いのなら……お片付けとか、洗濯物をたたむとか、ご用事があれば何でもおっしゃられて下さいね」

「はい。では、コーヒーを淹れてください。今日はアイスが良いな。それと……お嫌じゃなかったら、一緒に飲んでください」

「わかりました、ありがとうございます」

 由奈さんと一緒に居るだけで、何故だかホッとするし、少しずつ元気を取り戻せる気がする。


 コーヒーを静かに淹れた。

 パキッ! 清涼感ある音。熱いコーヒーに氷が溶けてゆく。名帆の好きな音。

「残暑もあるけど、随分夕方は涼しいよね……」ひとり言のように由奈さんが言った。

「そうですね、朝も。鈴虫、もう鳴いていますもんね!」

 名帆のほっぺの涙はもう乾いている。

「あ、僕も聞いたよ。ここね、網戸にすると結構聞こえるの」

「そうなんですね~」

 少し名帆の笑顔が戻った。


 武のことでツライ、とか……お悩み相談はしないで、由奈さんのサービスが終わった。

「ありがとうございました、由奈さん」

「こちらこそ、いつもありがとうございます、名帆ちゃん。おかえり気を付けてね!」

「はい、では……来週またよろしくお願いいたします」

「ハ~イ」由奈さんはお茶目な雰囲気で見送って下さった。


 由奈さんのサービスの翌日、武と朝8時に駅前で待ち合わせる約束をしていた。


 武は自分でクリニックへ電話を掛け予約を取ったのだ。

 病院は武の家から比較的近いので、武の自宅の最寄り駅まで名帆は電車で出向いた。

 武は待ち合わせ場所に名帆より先に到着していた。


「ごめんね、武……待たせちゃったかな」

「ううん、大丈夫だよ。まだ7時50分だし。ありがとうね、名帆……わざわざ、ごめん」

「いいよ。行きましょう」

「うん」

 二人はこれと言って会話もなくクリニックを目指した。駅から歩いて10分ぐらいの場所にクリニックはあった。

 道行く仲の良いカップルをみると、なんだか名帆は切なくなった。

(武とあたしもあんな時期があったな。でも……あたしの心はもう武に戻らないな)


 クリニックに着くと小さな病院だった。でも患者さんで溢れ返っていた。評判の先生だとインターネットで書かれていた。その通りなのかもな~。

 受付に訊くと1時間~2時間待ちだと言う。9時、と事前に予約をしていても、だ。

「うう~、キツイなー。俺待つの苦手だわ」と武。

(そんなでよくも高校教諭が務まるなー。まぁ、性格いろいろだから、ね……)心の中でぶつくさ言う名帆。


「いい? 武。めんどくさがらずに、洗いざらい話すのよ? 自分のしんどいことを全部さ」

 40才の武に向かってまるでお母さんみたいな名帆である。

「うん、頑張るよ」と武。


 待ちくたびれて、武は長椅子で座ったまま居眠りだ。

春本はるもとさーん、春本武さーん」武の番だ。

「武! 起きて! 武ったら、ねえ、起きてよ」

 揺さぶってもグーグー眠っている武。小さな待合室なので遠慮していたが、ここは仕方ない! と大き目な声で呼んだ。

「た・け・しっ!」ビク! やっと起きた。

「はい、フワァ~ィ……」あくびをしながらの返事だ。

(昨夜寝られなかったのかなー)

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