第3話 春の夜会に皇子は下手な詩を詠む
春の夜、後宮は香と灯に包まれていた。
白蓮殿の庭では、四月の満月を祝う夜会―「華月の宴」が開かれている。
皇族と高官、貴族たちが咲き誇る牡丹や桜、梅のもとに集い、琴が鳴り、舞が舞う。百蓮景界はその端に静かに立っていた。
錦衣をまとっていても、その姿はどこか鈍重で、誰も気に留めない。
だが、その肩には一匹の黒猫が乗っていた。
猫の金の瞳が月を映し、その尾がゆらりと揺れる。
「ありがとう八郎君。なかなか楽しい夜会になりそうね」
耳もとでかすれた声が囁く。
「静かに。紅樹玉殿、あなたが猫になったんだですよ」
「気にしない。この声は八郎君にしか聞こえないわ」
黒猫こと紅樹玉は尻尾で百蓮景界の頬をくすぐった。
庭の中央には、西蘭妃がいた。
淡緑の衣に身を包み、その胸には例の翡翠の胸飾りが月光を受けて輝いている。
彼女の周囲には多くの貴族が集まり、香のような笑いがこぼれる。
やがて、彼女の前に一人の妃が進み出た。
瑠璃色の装束をまとう瀬の高い豊かな膨らみをもつ女は東桜妃である。
冷たい美貌の持ち主で、宮廷では最も影響力を持つ妃である。
「まあ、西蘭妃。なんて見事な翡翠。まるで月そのものね」
声音は優しいが、その目には微かな探りがある。
西蘭妃は一歩下がり、深々と頭を下げた。
「恐れ入ります。烏が拾ってきたと噂の、あの首飾りでございます」
笑いの渦が小さく広がった。
百蓮景界は扇をたたみながら、その情景を観察していた。
紅樹玉が彼の肩で小さくあくびをする。
「烏だって。あなたの作った話、すっかり広まってるわね」
紅樹玉は猫ながらうふふっと妖艶な笑みを浮かべる。
「助かったのなら良いじゃないですか」
「ふふ、そうね。でも……」
紅樹玉は金の瞳で東桜妃を見た。
「この妃、あの件を知らないわ。少なくとも首飾りを隠すよう命じた記憶はない」
「そうなのですか?」
「隣の侍女を見て。あの娘……震えている。」
百蓮景界は視線をそっと移した。
東桜妃の背後に、薄桃の衣に身を包んだ侍女が控えている。
顔色は青く、唇がかすかに震えていた。
「李泉、あの子ね」
紅樹玉の声が低くなる。
「彼女の独断よ。己の主のためと、勝手に動いたのだわ」
「ならば、これ以上追及する必要はないですね」
百蓮景界は囁く。
「その娘を罰すれば、東桜妃の名に泥がかぶる。愚かの連鎖だ」
紅樹玉は百蓮景界の言葉を聞き、小さく笑った。
「あなた、優しいのね。それとも政治に長けてきた?」
「僕はただ、誰も傷つかぬ形を探しているだけです」
そう言って、百蓮景界は立ち上がった。
宴の中では詩作の競が始まっている。
満月を題に、それぞれが詩を詠む。景界は扇を片手に、ゆっくりと声をあげた。
「翡翠のごとく、月の園に咲く蘭は、柊の影よりも香し」
百蓮景界は詩を詠む。
静寂が一瞬、そして笑いが弾けた。
「殿下の詩は今日も難解だ!!」
「柊より美しだなんて……そんな比喩聞いたことない」
百蓮景界の詩はあからさまに馬鹿にされていた。
そのことに百蓮景界は慣れていた。
百蓮景界は苦笑いを浮かべる。
それでも紅樹玉は肩で軽く喉を鳴らした。
「でも、あなたの言葉はやさしい匂いがする。嘲る者には見えないものを見ている」
月はますます高く昇り、庭全体を銀に染めた。
翡翠の飾りがその光を跳ね返し、西蘭妃の胸の上で静かに輝いている。
その夜、宴は穏やかに終わり、何事もなく幕を下ろした。数日後の昼下がり。
百蓮景界の私室に、一人の侍女が控えめに現れた。
顔を上げれば、あの李泉である。
手には蜜柑の香が立つ茶を持ち、深く頭を下げている。
「やあ、お待ちしていましたよ」
百蓮景界の膝の上で黒猫の紅樹玉があくびをする。
「いえ……殿下に、お伝えせねばならぬことがありまして。」
百蓮景界は扇を閉じ、その言葉を待った。
「わたくしが……翡翠の首飾りを隠しました。東桜妃様に陛下の寵愛を今一度と……。しかし、それがどれほど愚かだったか、今はわかります」
昼の静けさの中、景界はしばし黙した。
扉の外では風鈴が鳴る。
「なぜ今日になって打ち明けた?」
「宴で、殿下のお詩を聞いたのです。翡翠の月、柊よりも美しいと。そのお言葉が、罪のように胸に刺さりました」
李泉は畳に額をつけた。
「罰を、お受けいたします。」
百蓮景界はゆっくりと羽扇を机に置いた。
「罰など不要だよ」
李泉は驚いて顔を上げる。
「二度と同じこと市内と約束してください。それで充分です」
「ですが、東桜妃様の名に泥を塗りました。」
「その泥は、私が引き受ける。烏の話のように、真実は風がさらうさ」
百蓮景界の穏やかな声だった。
李泉の頬を涙が伝う。
「殿下……!!」
「そうだね。僕になにかあれば力を貸してほしい。それでどうかな」
百蓮景界は微笑んだ。
「かしこまりました。殿下……」
李泉は深く頭を下げ、静かに去っていった。
その背を見送りながら、百蓮景界は窓際に歩む。
外の庭には、春蘭が風に揺れ、月光の名残を受けてほのかに匂う。
「紅樹玉、今ので良いだろう」
膝の上の黒猫に百蓮景界は語りかける。
黒猫の尾が左右に揺れた。
「ええ、聞いてたわ。あなたのそういうところ好きよ」
黒猫の言葉に百蓮景界の心臓は高鳴る。
「そうでしょうか」
「ええ、さすがは妾に血を捧げしものよ」
猫の声がかすかに響き、再び静寂が満ちる。
春の月はまだ淡く、しかし確かに照らしていた。
黒豚皇子。
百蓮景界の影を、夜の未来へと。
黒豚皇子は吸血公主に難題を持ちかける 白鷺雨月 @sirasagiugethu
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