第2話 かくされた理由
黎明前、後宮の中庭に靄が立ちこめていた。
百蓮景界は手ずから鍬を握り、柊の根元を掘り返していた。
紅樹玉の助言どおり、その場所を探すためだ。
冷たい土の中から、やがて翡翠の輝きがのぞいた。
鋤を置き、百蓮景界は手で掘り出す。
掘り出したものを手で土を払う。
小さな木箱を掘り出した。
その木箱を開ける。
そこには翡翠の首飾りが入れられていた。
翡翠の首飾りは、早朝の光を受けて青緑にきらめいた。
あまりに美しいそれを前に、百蓮景界は息を呑んだ。
「本当に、吸血公主の言葉どおりだ。」
恐れと共に、奇妙な歓喜が胸に広がる。
吸血公主・紅樹玉の力は、人の世の理を超えていた。
紅樹玉の言葉を信じた自分もまた、もう後へは戻れない。
百蓮景界は翡翠を懐に収め、朝靄の中を足早に西蘭妃の殿舎へ向かった。
西蘭妃は香炉のかすかな煙に包まれていた。
淡い桃色の衣をまとい、泣き腫らした目を伏せていたが、景界の手にある翡翠の輝きに気づくと、はっと立ち上がった。
「そ、それは……!!」
「お探しのものかと。」
百蓮景界は丁寧に膝をつき、両手で首飾りを差し出した。
西蘭妃は信じられないといった様子で受け取り、手の中でそれを確かめる。
「た、確かに……帝より頂いた首飾り……どうして、あなたが?」
景界はゆるやかに微笑んだ。
「たまたま庭で烏の巣を見つけまして。枝の隙間にこれが光っていたのです。鳥は光るものを集める癖がありますからね」
「まぁ……烏のいたずらだったのね。」
安堵の息が小さくこぼれた。
室内が安堵の空気に満ちる。
もし盗難であれば、妃の座が危うくなる。
だが烏の仕業ならば、誰も責めることはできない。
「第八皇子殿下、あなたは……まこと優しいお方ですわ。」
西蘭妃の目が潤んだ。
百蓮景界は恥ずかしそうに頭を下げる。
「たいしたことはしておりません。」
だがその微笑みの下、百蓮景界の胸には小さな棘が刺さっていた。
烏などいなかった。
百蓮景界は嘘をついたのだ。
西蘭妃を守るために。
そしてその侍女も。
その日、百蓮景界は数少ない彼の配下である宦官の黒曜に命じた。
西蘭妃の侍女雨情を呼び出した。
会う場所は後宮でも使われていない茶室だ。
夕暮れの光が格子をくぐり、埃の舞う静かな空間で、ふたりきりとなる。
雨情は青ざめた顔で跪いた。
「雨情でございます殿下……」
頭を下げる雨情はあきらかに震えている。
「顔を上げてよ、雨情」
百蓮景界の声は優しく声をかける。
少年皇子はべつに雨情を問い詰める気はない。
ただ真実を知りたいと思った。
「翡翠の首飾りの件です」
百蓮景界の声に雨情の肩がびくりと震える。
「わたしが、妃様のものを隠しました。ですが盗むつもりなど――」
ぽとりぽとりと雨情の涙が床をぬらす。
「誰の命によって?」
とつとつと百蓮景界は雨情に問う。
沈黙。
長い沈黙の後に雨情は口を開く。
やがて雨情は唇を噛みしめ、涙を浮かべながら答えた。
「東桜妃様の侍女が命じました。首飾りをなくせば、西蘭妃様は帝の怒りをかう。そうなれば、妃様の立場が危うくなり、あの方の派が有利になる、と……」
ぽそりぼそりと雨情はことばを紡ぐ。
「そうなのですね」
百蓮景界は目を細めた。
「だが、なぜがそれを受けたのですか?」
それを問われた瞬間、雨情はさらにぽろぽろと涙を零した。
「弟がいるのです……
百蓮景界は深く息を吐いた。
心の奥に、冷たいものが流れた。
「東桜妃がやはり裏で糸を引いているか」
彼女は皇帝の古参の妃であり、権勢を誇っている。
新たな寵妃・西蘭妃を陥れるのは当然の策だろう。
百蓮景界は沈思していたが、やがて柔らかく言った。
「雨情。お前は裏切り者ではない。家族を守ろうとしただけだ。」
「で、殿下……?」
「ならば、その恐れを断てばいい。弟の命を盾に取られぬようにしてやろう。」
百蓮景界はゆっくりと立ち上がり、窓の外を見た。
薄紫の雲が沈むように夜を迎えていた。
「雨海冥という若者は腕に覚えはあるのか?」
「はい。剣に秀で、郷で力自慢で通っております」「ならば決まりだ。」
百蓮景界は振り返り、穏やかな笑みを浮かべた。「明日より、雨海冥を我が専属の護衛武官に任ずる。私の護りとして仕えさせよう。」
雨情は驚きのあまり声を失った。
「そ、そんな……殿下、身に余るお言葉……!」「いいのだよ」
百蓮景界は首を振った。
「罪を償うとは、自らの力で新しい絆を築くこと。弟が私のもとにいれば、誰もお前たちを脅せまい。」
その言葉に、雨情の頬を新たな涙が伝った。
「ありがとうございます、殿下……必ず、弟にも忠誠を誓わせます。」
「いいよいいよ。僕は黒豚皇子と侮られている。僕と共に働く者など少ない。だからこそ、誠実な者が欲しいんだ」
その一言に、雨情は深く頭を下げた。
三日が過ぎた。
白い甲冑に身を固めた若者が、宮門の前に立っていた。
短く刈った黒髪、真っ直ぐな目。
彼こそ、雨情の弟雨海冥であった。
百蓮景界が姿を現すと、海冥は両膝をつき、深々と頭を下げた。
「北の田舎者には過ぎた任ですが、命を賭して殿下をお守りします。」
百蓮景界は微笑む。
「命を捨てるな、生きて働け。それでよい。」
ふと、紅樹玉の言葉が脳裏をかすめた。
血は絆。あなたの運命の糸は、もう私の中に通っている。
景界の周りには少しずつ、人が集まりはじめていた。雨情と雨海冥はその始まりである。
少年皇子を嘲る声の裏で、その光を見出した者たちがいる。
誰も知らぬところで、新しい力が芽吹こうとしていた。
それは、黒豚皇子が夜の契約に結ばれてから始まる、運命の序章であった。
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