黒豚皇子は吸血公主に難題を持ちかける

白鷺雨月

第1話 黒豚皇子と吸血公主

 竜華大陸を支配するのは百蓮帝国と言った。

 先代の黄亀王朝を駆逐し、建国二百年が経とうとしていた。百蓮帝国は一応は平安であったがその王宮はその限りではなかった。


 後宮の夜は、静寂の中に微かな囁きを孕んでいた。

 風が竹の葉を揺らすたび、白磁の殿壁に映る灯火が揺らぎ、影のようににじむ。

 後宮の奥深くの廊下をでっぷりと太った少年が一人で歩いている。

 この少年の名を百蓮ひゃくれん景界けいかいという。

 少年は宮中では「黒豚皇子」と蔑まれて久しい。丸い頬、ゆるんだ腹、走れば息が切れて転ぶ。兄弟に並べば凡庸を極めた存在だった。

 剣も振れず、弓も撃てず、馬にも乗れない。

 故に黒豚皇子と呼ばれる。

 だが今宵、彼は誰も知らぬ闇の奥へ足を踏み入れていた。

 そこは幽燈庭と呼ばれる場所である。

 後宮でも忌み地として封じられた区域だ。

 前王朝黄亀帝国最後の皇女が自死した場所とも言われている。

 また百年前、この庭で一夜にして数十人の侍女が姿を消したという。

 百蓮景界の手には小さな提灯がにぎられている。炎が彼の丸い顔を照らし、脂汗をにじませた。

「暗いな。まるで、ここだけ夜が飲み込まれているようだ」

 百蓮景界はひとりごちる。

 足音が石畳を湿らせる。

 彼の胸の鼓動は、太鼓のように響いていた。目的はただひとつである。

 伝説の吸血公主に会うこと。

 彼女に相談を持ちかけるためだ。

 百蓮景界はすでに何度かこの場所を訪れていた。

はじめは半信半疑だった。

 だが、彼女――紅樹玉と名乗る白髪の少女は確かに存在した。

 紅玉のように透き通った瞳をして、薄紅の唇を噛むたび、空気が凍るような気配を放つ。

 そして、血を口飲むかわりに、人の心や嘘を見通す助言を与えてくれる。

 今夜の相談は、些細だが危うい問題だった。

 皇帝の寵妃のひとり、西蘭妃さいらんひが、帝から下賜された「翡翠の首飾り」をなくした。

 皇帝にはまだばれてはいない。

 しかし、月間の満月の夜の会につけてこいと西蘭妃は命じられている。

 見つけ出せなければ罪に問われるのは間違いない。

 西蘭妃は数少ない百蓮景界の理解者である。彼女の窮地を救うため、百蓮景界は紅樹玉の力を借りようとしていたのだ。


「紅樹玉殿、百景界です。少し、お話しを願います」

 彼が名を呼ぶと、闇がゆるやかに波打った。

空気が凍り、灯が瞬く。

 池のほとり、石橋の上に、白衣の影がすうっと浮かぶ。

「こんな夜更けに、また血を捧げに来たのかえ?」 

 透きとおる声がする。

 耳に心地よい美声であった。

 紅樹玉はまるで月の化身のように、眩しいほど白かった。

 髪は銀に光り、瞳は熟れた果実の赤だ。

 周囲の風は止まり、音が消える。

 百蓮景界にはそのように感じられた。

「その……どうしても知りたいことがあってですね」

 百蓮景界はていねいに頭をさげる。

 仮にも帝国の皇子が頭を下げるのだから、少年にとってはそれほどの相手であるということだ。

「ふふ、皇子殿下。それはそれはごていねい。今宵も良い月ですね。もうすぐ満月かと」

 紅樹玉は微笑んだ。それは冷たくも儚い微笑だ。

 百蓮景界は紅樹玉の美麗なる顔に思わず見惚れる。

「殿下の血、甘いのよ。三百年生きてきて、あれほど純な香りは滅多にないわ」

 紅樹玉はうっとりとした顔で百蓮景界の顔を見る

 百蓮景界は顔を赤らめ、視線を逸らした。

 彼女に会うたび心が落ち着かない。恐ろしい存在なのに、なぜか惹かれてしまう。

 きっと、彼女だけが自分を「無能」と笑わないからだ。

「それで……今度はどんな相談かしら?」

 紅樹玉は欄干に腰をおろし、白い足先で池面をなぞった。

 百蓮景界は唾を飲み込む。

「西蘭妃が、帝から頂いた翡翠の首飾りをなくしたのです。彼女の命が危ない。見つける手がかりを教えていただけませんか」

 紅樹玉は黙って百蓮景界を見つめた。

 夜の光に照らされて、その瞳の奥に幾つもの影がよぎる。

「代価は分かっているわね?」

「はい。血を捧げます」

 百蓮景界は襟元をずらして、首すじを見せる。

 そこは赤黒くにじんでいる。

 何度か血を捧げた証である。

 紅樹玉は、舌なめずりし、百蓮景界の首すじに噛みつく。

 わずかに百蓮景界は苦痛に顔を歪める。

 しかし、それはすぐに快楽にかわる。

 紅樹玉に血を吸われるのは苦痛でもあり、快楽でもあった。

 女の身体を知らぬ百蓮景界であったが、その快楽はもしかするとそれ以上なのかも知れない。

 一口、二口、三口と紅樹玉は血を飲む。

 ごくりごくりと紅樹玉の白い喉が鳴る。

 そしてすっと口を離す。

 紅樹玉は唇に僅かにつく赤い血をなめとる。

 妖艶この上ない。

 百蓮景界は若干のふらつきを覚えた。

「温かい。殿下の血は、いつ飲んでも美味い」

 紅樹玉は目を閉じ、しばし沈黙した。

 血の味を褒められたことに喜んで良いものかと百蓮景界は戸惑う。

 少年皇子は襟元を正す。

 風が止み、池面が鏡のようになる。

 紅樹玉の白髪が水面に漂う光をまき散らす。

「見えるわ」

 紅樹玉は囁いた。

「翡翠の首飾りは、この宮廷内にある。盗んだのは、西蘭妃の侍女、名は雨情うじょう。侍女はそれを木の下に埋めた。今、それは後宮の庭の中の根に埋まっている」

 にこりと紅樹玉は微笑み、とある方向を指さす。

「あの柊の木の下じゃ」

 少し離れたところに瀬の高い柊が見える。

「な、なんと!!」

 百蓮景界の目が見開かれる。

「どうしてそんなところに――」

「西蘭妃も何者かがおとしいれようとしている。雨情はあやつられている。もしくは脅されている」

 紅樹玉の言葉は月光のように静かだった。

「人の心にある欲は、魂の香りとして私たちに見えるの。あなたが血をくれたから、私にも視えた」

 百蓮景界は息を呑む。

 自分の血が彼女に視界を与えている。

 それは恐ろしくも、どこか誇らしい感覚だった。「紅樹玉様、助言、感謝いたします。これで西蘭妃を救えます」

「代償を忘れないでね八郎君。血は絆なのです。あなたとわたくしの運命の糸は、もう私の中に通っているのよ」

 八郎君とは8番目の皇子という意味である。

 百蓮景界は帝国の八番目の皇子であった。

 紅樹玉は立ち上がり、少年皇子の頬に手を添えた。冷たい指先が彼の汗をぬぐう。

「次にあなたがここへ来る時、その血はもっと濃くなっている。百蓮景界いずれあなたの名は帝国を揺るがすわ」

 くくくっと紅樹玉は笑う。

「……どういう意味です?」

 百蓮景界は問う。

 自分のような無能者がどうあがいても帝国を揺るがすなどできるわけはない。

 だが紅樹玉はそれ以上答えず、白い衣のまま闇へと融けた。


 残されたのは、夜風の音と、首元にのこる紅樹玉の唇と歯の感触だけ。

 提灯が揺れ、百蓮景界は深く息を吐いた。

 肥えた体を支えながら、ゆっくりとあの庭をあとにする。

 黒豚皇子。

 誰もが嘲るその呼び名の裏で、彼の運命は、すでに血と闇に繋がれはじめていた。

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