介錯

安藤未粋

介錯

 ――親らしいことを、何一つしてやれず、申し訳なかった――


 皺が寄り、碌に潤いも残っていない唇から零れ落ちた言葉を綴る。


 街の喧騒から少し離れた病院にて。真白いカアテンが揺らめく穏やかな昼のこと。


 病床に伏せる老人の傍らで男は万年筆を走らせていた。掠れた声で絞り出される一言一句を違うことなく。耳を澄ませ、真白い紙に黒を刻む。


「これで、すべてでございましょうか」


 男が机に筆を置いておもてを上げれば、老人はおもむろに頷いた。目を閉じ、酷く穏やかな表情で。


 男は便箋を折り畳み、慎重に封筒へ収める。それを懐に差し入れて席を立つと、老人に深く一礼をして、病室を辞した。


 廊下を歩む男を、すれ違う看護婦が怪訝な顔で目で追って避けてゆく。肩を丸め、壁際に寄り、忌まわし気な眼差しで。


 病院の門を出れば、男は懐から先程の書状を取り出し、郵便箱へと投函した。


 仰ぎ見る病棟の窓には、未だ白き布が揺れている。男は暫しそれを見つめた後、静かに踵を返した。



 男は、死神と呼ばれている。



 ・・・



 サナトリウムの窓から見える景色には、果てなき高原が悠々と横たわっていた。吹き抜ける新鮮で鋭い風が、ごうごうと背丈ある草を掻き回してゆく。


 この門を潜り、出ることのできる人間は限られている。かく言う「男」も、そのうちの一人であった。


「あぁ、君か。……どうしたのだ、その頬は」


 白衣を纏った医師が、廊下をゆらりと歩く男を見とめ、酷くそっけなく事務的な声で呼び止める。


 声を掛けられ振り向いた男の頬は、何者かに強くたれた様に赤黒く腫れ上がっていた。


 男は医師の問いに一言も答えず、静かなかんばせをそのままに、手にした鞄の取手を握る力を強める。よく鞣され、年季の入った革の軋む音がした。


 医師は諦めたように嘆息し、仄暗い、長く続く廊下の先を指差す。


「二○八号室の岡崎さんが御待ちだ。早く行ってやれ。そう長くは残されていない」


 男は小さく会釈をして、下駄を鳴らしながら廊下を進んだ。消毒液と死の香が綯い交ぜになった空気を掻き分けて。


 扉を開けば、よく整えられた病室の窓際に皺がれた老婆が一人横たわっていた。半開きになった口からは、薄く小さな呼吸音が漏れ出ている。落ち窪み、白の混ざったような睫毛で飾られた目は静かに閉じられていた。


 男は病床に歩み寄ると、緩やかな所作で椅子を引いて老婆の傍らに座す。使い古された鞄の留め具を外し、便箋と万年筆を取り出した。


 その物音に気が付いたのか、老婆はおもむろに瞼を開いて首を動かす。白髪とシイツが擦れてざらりと音を立てた。


「言葉を」


 机に便箋を広げ、インクで潤した万年筆を握る男の問い掛けに、老婆はゆったりと口元を緩めて眉尻を下げる。


「……死ぬ時は一緒だと約束した筈だったのに、あなた、御免なさいね……」


 老婆はぽつりぽつりと、時折咳き込み息を切らしながら言葉を紡いだ。男は掠れ、途切れる声を一言一句違わず書き留めてゆく。


「……これで、総てでございましょうか」


 老婆がひとつ息を吐いて口を閉じた。男は筆を置き、おもてを上げて問い掛ける。


「えぇ。これで心が楽になったわ。有り難う、代筆さん」


 老婆は大層満ち足りた様子で微笑みを浮かべ、確りと頷いてみせた。


 ――心が、楽になった。


 その言葉を耳にして、便箋を折り畳んでいた男の手がはたと止まる。気に留めていなかった頬の腫れが、じくじくと毒を盛られたように痛みを訴えはじめた。


 未だ熱を持つ患部に手を伸ばし、指先でそっと触れる。


 その痛みは、数日前、この傷を喰らう原因となったの記憶を蘇らせる呼び水となった。



 ・・・



 男が町外れの病院へ再び足を運んだ時のこと。


 以前、老人の「言葉」を投函した郵便箱の傍らに、腕を組んで辺りに睨みを利かせている物騒な男が佇んでいた。白いシヤツに黒い洋袴ズボンという、気取った出で立ちで。


 その洋気触かぶれの男は、下駄を鳴らして自らの前を素通りしようとする人影をと呼び止めた。


「貴様か、死神と云うのは」


「……そう呼ぶのが相応しいと、貴方が思われるのであれば」


 淡々とした返答に、問い詰めた男は逆上した面持ちで胸倉に掴み掛かる。着物の襟元が捲れ、中に着ていた白い立襟のシヤツが覗いた。


 死神と呼ばれた男は、甘んじてその狼藉を受け入れる。怯えも惑いもなく、ただひたすらに激情を露わにする目の前の人間を見据えた。


 片やその死神を待ち構えていた男は、怒気を振りかざすも肩透かしを喰らった形になる。この古めかしい書生服の若者には暴力も何も効かぬと悟ったのか、男は胸倉から手を放して肩を突き飛ばし、自らもゆっくりと距離を取った。


巫山戯ふざけるなよ、こんな手紙寄越しやがって」


 洋袴ズボンのポケツトを乱暴に探った男は、一通の封筒を死神に向かって投げつける。封を切られた隙間から、ひらりひらりと皺の寄った便箋が零れ落ちて辺りに散らばった。死神は、花弁の様なそれを静かに目で追う。地面に落ちた便箋には、インクが点々と滲んでいる箇所があった。


「確かに……碌でなしで、父と呼ぶのもはばかられるような男だったが……」


 先程まで詰め寄り喚いていた男は、一転して弱々しい声を上げて膝を折る。散らばった便箋を掻き集める所作は酷く緩慢で、紙を握り締めた手は力んで筋張っていた。皮膚の軋むような嫌な音が鳴り、地面には爪が土を削った跡が残される。


「この言葉は、俺が、直接聞くべきだったんだ」


 絞り出された声は、悔恨に満ちたようにくぐもっていた。地面に膝をつき、皺くちゃの紙を胸に抱いて肩を震わせる姿は、余りにも憐れである。


 代筆屋の男は、人目も憚らず涙を流すを静かに見下ろした。大の大人が慟哭し、小さくその身を丸める情けない姿が、その冷めた黒い双眼に映り込む。


「伝えたいことを言ってしまったから、気が抜けて親父は死んじまったんだ」


 男は訴えかけた。その叫びを前にしてなおも沈黙を貫く死神に、やがて男はおもてを上げ、血走った眼で呪詛を吐き散らす。


「アンタが、親父を殺したんだ」


 その言葉を心外だと感じたのか、死神と呼ばれた男は僅かに目を見開いた。そして哀れな蹲りへ歩み寄ると、固く引き結ばれていた唇をようやほどいてみせる。


「あの方に長い時が残されていなかったことは、誰の目にも明らかでした。息をするにもやっとなあの身で、言葉を抱えたまま、いつ途絶えるか分からぬ生を過ごせと仰るのですか」


 その問いを聞くや否や男は矢庭やにわに立ち上がり、便箋を握り締めたまま殴りかかった。渾身の拳は標的の頬を捉え、その身体を撥ね飛ばす。よく手入れが施してある古びた鞄も、倒れ伏した彼の手から離れて地面を転がった。


「お前は、何にも分かっちゃない。誰のものかも分からぬ筆致で最期の手紙が届く気持ちを。死に目に逢えなんだこの惨めさを」


 遺族の男は頬を押さえて呆然とする代筆屋へ馬乗りになり、狂ったように胸倉を掴み激しく揺さぶる。しかし、死神と呼ばれる者は、罵声を浴びせられても案山子カカシのように無抵抗を貫いた。その様に、男は怒りのぶつけ先を失って力無く腕を下ろす。


「貴様は本当に大切な人を喪ったことなど無いのだろう。故にこれ程にむごいことができるのだ。愚者め、貴様は矢張り、人の皮を被った死神だ」


 のっそりと身を起こした男は、去り際にその言葉を吐き捨てると、丸めた背中を雑踏に紛れさせて消えた。


 片や地面に仰向けになっていた男は、ややあってゆっくりと身を起こす。道端に転がっていた鞄を拾い上げると、砂埃で汚れた表面を手ではらった。


 代筆屋は、自らを殴りつけた男の去った道を一瞥する。そうして何事もなかったかのように、再び下駄を鳴らして歩みを進めた。



 ・・・



「……代筆さん?」


 便箋を畳んだ途中で長らく呆けてしまった男を心配してか、老婆は首を傾げて声を掛けた。


 男は、と息を呑んで意識を取り戻すと、手早く封筒の体裁を整え、柔らかな微笑を老婆に向ける。


「何でもありませんよ。では、丁重に届けさせていただきます」


「えぇ、宜しくね」


 老婆は深々と頭を下げて部屋を辞す男の姿を目で追い見送ると、酷く満たされた様子で口角を上げた。


 男はサナトリウムの門を潜り抜けて歩みを進め、路端に佇む郵便箱の前で足を止める。懐から封筒を取り出すと、慣れ切ったような所作で静かにその隙間へ投函した。すとん、という軽い音が赤い筒の半ばから響く。それを確認した男は、再び下駄の音を鳴らして歩き始めた。



 翌日、老婆は息を引き取ったという。



 男が言葉を書き留めたから死んだのか、はたまた老婆自身が死ぬ間際であることを悟り、男を呼んだのか。


 それを知る術など、誰にも有ろう筈がなかった。



 ・・・



 男はその日も、高原のただ中にあるサナトリウムへと足を運んでいた。白昼の幽霊のような佇まいで、男は病棟のロビイを歩く。彼の履いた下駄の音が、静まり返る空間に高く反響した。


 長椅子に腰を下ろしてカルテに目を落としていた医師は、見慣れた光景だと言わんばかりにおもてを上げて一瞥する。


 男の頬の腫れは随分と退き、元の能面のような人相がよく分かるようになっていた。医師はそれに言及することなく、相も変わらず仄暗い廊下を指し示す。


「今日は三○七号室だ」


 男は医師に小さく会釈し、静かで清掃の行き届いた冷たい廊下を進んだ。階段を上る途中で看護婦とすれ違うも、彼女は男の姿を捉えまいとしているのか、俯いて壁に寄り、踊り場で立ち止まる。男はそれを意に介す様子もなく、医師に指示された三階へと歩みを進めた。


 男は病室の番号を一瞥し、死が手ぐすねを引く人の待つ扉を、躊躇うことなく開け放つ。


 殺風景で酷く静かな病室では、若い女が半身を起こして風に当たっていた。入口に立つ男の位置からは、その痩躯と、風に揺らめく黒髪に隠された横顔しか見えない。


 扉を留める金具の軋む音と、男が部屋に踏み入った床板の擦れ合う音に気付いたのか、女は髪を耳に掛け、ゆっくりと首を動かした。


「どなた?」


 皮膚の下の血の色を透かしたように青白い肌と、微熱で染まる薔薇色の頬、紅色の唇。病床には、見慣れた症状に侵された女が佇んでいる。


 その姿を目の当たりにした男は、眼を大きく見開いた。返事をしようにも男の喉はひくりと震え、その口は打ち上げられた魚のように惨めったらしく開閉を繰り返す。革の鞄が彼の指からすり抜けて床に落ちた。


 女は突如鳴り響くけたたましい音に、大きく身を震わせて顔をしかめる。そして酷く怯えたように肩を強張らせながら、男の立つ位置からややずれた方向へ困ったように微笑みを投げかけた。


「御免なさい、病が進行して眼が駄目になっているの」


「なぜ、貴女がこのような場所に」


 男が上擦った声を漏らす。女はその音を頼りに少し首を動かすと、今度こそと言わんばかりに口角を上げた。


「簡単でしょう。私、死ぬの。それ以外に何の理由があるのかしら」


 平然と答えてみせた女に、男は眉をひそめて歯軋りをする。取り落とした鞄を拾うこともせず、ペン胼胝ダコのある手できつく拳を握り締めた。


「どうして独りで。貴女には、全てを投げ打ってでも添い遂げると誓った人が居た筈」


 男が悲痛な叫びとして思わず言葉を漏らせば、女は驚嘆したように口を開き、すぐさま痩せ細った指先でそれを隠した。


 二人の間に肌を刺すような静寂が横たわる。全身を強張らせて硬直する女を前に、男はしまった、と歯噛みして忌々しげに首を振った。


 一方の女は漸く合点がいったとばかりに息を吐き、眉を下げて不格好に口角を歪める。


「その声……。、なのね。こんな時に、こんな場所で出会うだなんて。どんな運命の巡り会わせかしら」


 女は半身を起こしていた体勢から手探りで枕とシイツを手繰り寄せ、病床にゆっくりと横たわった。輝きを失い、随分と細くなった黒髪がふわりと広がり寝乱れる。


 男は思い出したかのように鞄を拾い、慎重に留め具を外した。努めて普段通りの所作で、万年筆と便箋を取り出す。


 女はその物音を聞きながら、真っ直ぐに天井を仰ぐ。そしてクスクスと小さな笑い声を上げて自嘲してみせた。


「……誠の愛があったとあなたから逃げて、このようにやせ細って惨めな姿を見せたくないと、あの人からも逃げて。私の人生は逃げてばかりね」


 もう何も映さなくなった女の目には、一体何が見えているのだろうか。男は女の独白を聞きながら粛々と机に向かい、万年筆の蓋を開ける。


「私を呼んだのは、後悔、からですか」


 鈍色の切っ先が昼下がりの陽光をかえした。男は便箋の上に手を置き、ペンを握り締める。


「そうよ。だからね、お願いよ。御手紙屋サン」


 ペン先のインクがぽたりと落ちて、便箋に黒い染みを作った。慌てて便箋を破り丸めると、布でペン先を拭う。


 インクで汚れてしまった指先を一瞥し、男は酷くゆっくりと深呼吸をした。死を待つ者達が吸うに相応しい、澄んだ空気が肺を満たす。


 男は椅子を引いて座り直すと、背筋を伸ばし机と向かい合った。便箋に皺が寄らぬよう、真っ新な紙面を撫でる。


 男はおもてを上げて病床に視線を移した。白い布に沈んだ女は、その色に負けず劣らず青白い肌色をしている。それを一瞥した男は、きつく目を閉じて再び息をついた。


「……言葉を」


 ややあって掛けられた粛々とした声に促され、女は徐に口を開く。


 ぽつりぽつりと紡がれる言の葉を、男は丁寧に紙面に刻んだ。筆から吐き出される黒い液体が、男の手により意味を帯びていく。


 寂莫とした病室には、女の囁く小さな声と、それを記す男の筆が走る音だけが響いた。


 女が話し疲れたように一息つけば、男も手を止めて筆を机の上に置く。自らが書き下した便箋を見下ろし、小さく唇を噛んだ。


「この手紙を書き終えれば、君は死ぬのか」


 ぽつりと呟かれた独り言のような問い掛けに、女は目尻を下げて首を傾げてみせる。耳に掛かっていた黒髪が、一房落ちて頬に掛かった。


「さぁ……。命の終わりなんて、かみさましか知らないわ」


 女の言葉を耳にして、男は僅かに目を見開く。やわらに顔を上げ、横たわる女の姿を捉えた。


 昼下がりの柔らかな風を受けて、カアテンが膨らみひるがえる。女は肌を撫でる空気の流れを心地よさげに味わっていた。そして探るように首を捻り、男の座す方向へ正対する。


「……けれど、あなたに生きる意味をひとつ渡してしまうことは確か」


 女の充血し濁った瞳に、色を失った男のかんばせが歪に映り込んだ。


「意味を、ひとつ……」


 男の鸚鵡オウム返しを聞いた女は、目を細めて微笑みながら頷く。そして再び病床へ仰向けになって天井を仰いだ。


「続きを伝えさせて頂戴」


 女の一声に、男は促されるがまま再度万年筆を手に取る。彼女の言葉をひとつとして漏らさぬよう、便箋に切っ先を走らせた。


 女は自らの身を削るように言の葉を紡いでいく。息を切らし、時折痰の絡む湿った咳を繰り返しながら。


 愛する者への執着を打ち明けんとする拙い言葉は、男の手によって整然とした文字となり、白い紙へ刻まれてゆく。


 故にこの言葉を不格好で熱のあるままに相対するのは、この世界でたった一人。


「……御手紙屋サン?」


 自分の声に呼応するように響いていた筈の硬い音が、いつの間にか途絶えた。それに気付いた女は、戸惑うように口籠る。


 女が微かに首を上げれば、男は便箋に視線を落としたまま静かに乞うた。


「続けてください」


 女はやや面食らったように閉口し、再び促されるがまま語り始める。女の紡ぐ小さな声が寂莫とした病室に響いた。


 ややあって、女が遂に細く息を吐いてその唇を引き結ぶ。男もそれに倣って机の上に筆を置き、俯いた姿勢からおもてを上げた。


「……これで、すべてでしょうか」


 男は声を絞り出すようにして決り文句を謳う。


 瞼を閉じ、口角を緩めて白いシイツに揺蕩う女は、男の問い掛けに深く頷いた。寝乱れた髪の擦れる音が僅かに空気を震わせる。


 それを見届けた男は丁寧に便箋を折り畳み、懐に封筒を差し入れた。手早く鞄に荷物を仕舞えば、鞄の留具が触れ合って微かな金属音が鳴る。


 男は机と椅子の体裁を整えると、戸の前に立ち、振り向いて深々と頭を下げた。


 その僅かな衣擦れの音と、次いで戸の金具が軋む音を頼りに、戸が閉まる間際、女は小さく呟いた。


「――」


 男は深々しんしんとしたサナトリウムの廊下を、確りとした足取りで進む。相も変わらず能面をかんばせに貼り付ける様に、すれ違う医師が何か言いたげに振り向いた。


 しかし、結局呼び止めることも無くその背中を見送る。男の纏う墨染の袴が、足取りにつられて翻った。


 男は門を潜り、道の先に佇む郵便箱を素通りして足を進める。夕方に差し掛かりはじめたような色の空に、ごうごうと高原の強い風が吹き抜けていった。



 ・・・



 落陽も幕引きな薄明の下、男は数時間前と一転して生の匂いに満ち溢れた街路を歩いていた。


 仕事終わりで煤や埃で汚れた頬をそのままに騒ぐ男共や、風車かざぐるまや戦艦の玩具を持って駆ける子供とすれ違う。人々が犇めき息づく何処かで、弾けるような赤子の泣く声が響いた。


 井戸で水を汲む主婦や、夜の帳が下り始めたために子供を呼び戻そうとした母親達は、見慣れぬ余所者の影に肩を寄せ合いひそひそと囁き合う。


 針の筵のように全身を突き刺す視線を意に介さず、やがて男は古びた長屋の前に立った。鞄の持ち手を握る力を強め、もう片方の手で戸を叩く。引き戸の木枠が控えめながら確実に騒がしい音を立てた。


はなッ」


 それに応えて戸を勢いよく開け放ったのは、大柄で生真面目そうな青年。頬が扱けて酷く疲れた様子の彼は、突然の招いてもない訪問者を見下ろして眉間に皺を寄せる。


「アンタは……」


「奥様より、御手紙を預かっております」


 警戒心を剥き出しにした青年の前で、男は懐から書状を取り出した。しかし青年はそれには目もくれず、屈強なその腕で男の胸倉へ掴み掛かる。詰め寄られた男の身体は簡単に体勢を崩し、弾みで手からは鞄が零れ落ちた。


「お前ッ、華は何処にいるんだ」


「奥様より、御手紙を預かっております」


 男は声を荒げる青年の問い掛けには頑として答えず、地面を踏みしめてその屈強な腕を振り解く。こんなものは要らぬ、なんだこれはと抵抗を見せる青年を前に、男はこの応酬で皺の寄ってしまった封筒を握り締めた。


「本来、私の使命は手紙を投函するまで。この手紙も、郵便にて御渡しするつもりでした」


 青年は男の言葉に目をみはり、異様なものと遭遇したかのように男を見下ろす。そうして俯瞰された男は、苦悶の表情を浮かべながら青年を仰いでいた。


「私は、彼女の言葉を己が筆で綴ることに悦びを覚えてしまった。その懺悔のため、私は今此処に立っているのです」


 青年は男の気迫に怯んだのか顎を上げて一歩後退る。男はその隙を突き、青年の手を取って封筒を握らせた。インクで汚れた掌が、青年の拳を包み込み、祈るように目を閉じる。


「どうか、御受け取りを」


 青年は、男の縋り付く様相に押し負けるかのように封筒を破り、数枚の便箋を取り出すと、怪訝な顔でそれを読み下し始めた。男は真っ直ぐにそれを見守る。


「華……」


 青年は最後の便箋を読むや否や、ぽつりと名前を呟いて駆け出した。


 男はその後ろ姿が見えなくなるまで見送り、踵を返して一歩を踏み出す。


 鼻緒で擦れた足が運ぶ下駄の鳴る音だけが、星の瞬きはじめた夜空に響いた。

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介錯 安藤未粋 @misui_undo

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