第9話 別れ
朝8時30分、家の電話が鳴った。
「はい。今、家におりますが」
妻が不思議そうな顔をしながら男を見つめる。
「あなた、市役所から電話よ」
来たか。
「ありがとう。なんだろうな」
男は妻から受話器を受け取ると、和室に移動した。
「もしもし」
少し日焼けした障子を見ながら、電話に出た。
「おはようございます。市民記録部 記憶面会管理課です。本日が登録された記憶面会の終了期日に該当しますので、確認のお電話を差し上げました」
頭では分かっていたことだ。
いや、こうやって伝えてくれるだけ良いじゃないか。
「ありがとうございます。承知致しました」
男は静かに電話を切ると、和室を見回した。
子供と相撲をしていた時に小さな穴が空いた襖が目に入った。
男は和室から出て、キッチンの妻を見つめた。
食器を洗う水音が、なぜか耳に染みる。
「この音も、今日で終わるのか」
そんな考えが頭をよぎったが、言葉にはしなかった。
「何だったの?」
リビングから妻の声がした。
「なんでもないよ。税金の書類のチェック項目に漏れがあって、質問されただけだ」
男は受話器を充電器の上に静かに置くと、腰に手を当てて背中を伸ばした。
「朝早くから結構なことだよな」
「税金の間違いなんかするからでしょ!」
と妻が笑う。
そうだ。これだったんだ。
「今日は散歩をしないか?子供達が通った小学校と中学校を通った後、中央公園を通って帰ってくるのはどうだ?ここ数年見ていないから、どう変わったのか見てみたくなった」
男は腰に手を当てながら皿洗いをしている妻を見た。
「ちょうど運動会シーズンだから、子供達の棒倒しなんかが見られるかもしれないぞ?自分の子供がやっている時は心配で見ていられなかったものだが」
泡のついたスポンジを持ちながら、妻が顔を上げた。
「いいわ。家事が終わったら行きましょう。昼から暑くなるから、午前中がいいわね。」
リビングの時計から10回、鐘の音がした。
外に出ると、小学校から応援団の声が聞こえて来た。
「お、やってるな」
小学校の横を通ると運動会用テントと椅子が目に入った。
紅白帽を被り、日焼けした肌を黒く光らせながら、子供達が声をあげている。
今では見ることが出来ない、その光景に見惚れてしまった。
まだ街が生きている。
「いつもあそこら辺の椅子に場所取りをしていたわね。懐かしいわ」
妻が目を細めながら、運動場に指を向けていたやっていた。
砂場の前に建てられたテント。
そこが妻のお気に入りだった。
徒競走のスタート位置でもあり、応援団合戦を中心から見ることが出来る最高の場所。
男はここに来る前、早朝、同じ椅子に座っていた妻の姿を思い出した。
その時の妻は、どこか彼方を見つめているようだった。
「そうだな。ハンカチを結ぶためだけに、朝早くに来ていたよな。懐かしいよ」
「あら?そんなことまで覚えていたの?あなた、場所取りなんか行ったことないのに?」
妻が悪戯っぽく笑った。
「覚えているよ。ありがとうな」
「なによそれ」
2人は笑いながら、思い出の道の散歩を続けた。
・
「はあ、暑かったな。クーラー付けたままにしておいて正解だった」
「本当ね。でも楽しかったわ」
「昼飯は俺が作るよ。皿うどんを食べたくなった」
「珍しい!でも良いわね。私はソファで横になっているわ」
「おう。ゆっくりしとけ!」
男は冷蔵庫を開けた。
中は食材で満たされていた。
同じ冷蔵庫なのに全く別の物のようだ。
この蒲鉾、今売っていたかな。
「好きに使っていいんだな?」
「いいわよ。ただ、牛肉は使わないでね」
「皿うどんに牛肉なんか入れるやつがいるか!」
大笑いしながら、男は皿うどんを作り始めた。
誰かのために食事を作るのって、こんなに楽しかったかな。
肉と野菜がジュージュー音を立てながらフライパンの中で踊る。
「良い匂いがするじなゃない」
「そりゃ、誰が作っても似たような味になる料理だからな!」
出来上がった頃、妻はソファから起き上がり、テーブルを拭き始めた。
「寝てていいのに」
「準備ぐらいさせてよ」
と言ったあと、妻は椅子を引き、皿が来るのを待った。
「はやく!お腹空いた!」
と急かす妻。
「ちょっと待ってろ!」
と笑う。
「いただきます。あら、美味しいじゃない」
「そうだろ。酢をかけるともっと美味いぞ」
リビングの時計の針が、無音で時間を刻んでいた。
あと10時間。
けれど、この部屋にいると、時間というものがどこか遠くの話に思えてくる。
「お腹いっぱいになったら眠くなっちゃった。ちょっとお昼寝するね」
と言い残し、妻は2階へ上がった。
男は1人、皿を洗い始めた。
「あと少しだってのに、あいつは…」
そう言って、男は少し笑った。
一通り片付け終わると、男はソファに身を沈めた。
「本当に良い時間を過ごせた。」
目を閉じ、4年8ヶ月を思い返した。
妻が玄関から出てきた時、家族4人での団欒、妻との買い物。
ここには、いくら望んでも手に入ることはないと諦めていたもの、あの日々の全てがあった。
思い出せる限り、1日1日の記憶を静かに撫でるように辿っていった。
・
気がつくと、男も2時間程昼寝をしていた。
「あら、おはよう。また、ソファの布をぐしゃぐしゃにして」
鍋で何かを煮ている音がする。
少し薬のような匂いが鼻についた。
「なんだこの臭いは?」
「わかった?今日は角煮を作ろうと思って。多分八角の匂いよ。普段使わないけど、ちゃんと作ってみようと思って」
こんな匂い、嗅いだ記憶がない。
ここに来てから覚えたのか?
「汗をかいたから、風呂にはいってくる」
「ゆっくり入ってらっしゃい」
服を脱ぎ、洗濯機の中へ無造作に投げ込む。
ドアを開け、シャワーを出し始めた。
冷たい水が男の体についた汗を流す。
なかなかお湯にならない。
給湯器の調子が悪くなってきた頃か?
一通り身体を洗うと、浴槽に身を沈めた。
最後の風呂だ。
風呂の中を見回した。
子供が幼稚園からもらって来た、黄色のタライが、浴室内の1番高い棚に無造作に置いてある。
このタライに金魚を入れて、水槽を掃除したな。
窓の側をみる。
大きな貝殻が2つ置いてある。
みんなで海水浴に行った時、妻が見つけて来た貝殻だ。
良い歳して、法螺貝の真似事をしていたな。
まだ家にあるものなのに、ここで見ると全く別の物に見えてくる。
風呂の中で顔を洗い、目を閉じた。
「良い人生だった」
・
風呂から上がると、妻がビールを注いでくれた。
「はい、角煮と枝豆。この角煮、美味しくできたわよ!」
と男の前に皿を並べた。
「こんな料理、いつ覚えたんだ?」
「最近圧力鍋を買ってみてね。そこに載っていたレシピなの。角煮って家で作ると肉が柔らかくならなくて嫌だったのだけど、美味しくできるのよ」
「そうか。最近覚えたのか」
男から思わず笑みが溢れた。
「うん。美味いじゃないか。臭いと思ったけど、これが良い味だしてる」
「そうでしょう?」
普段通りの時間が過ぎていき、22時になった。
「そろそろ寝ようか」
「そうね。もう寝ましょう。」
2人は和室に布団を敷いた後、電気を消した。
「今日は話しながら寝てもいいか?」
「いつもすぐ寝ちゃうのに」
妻が冗談混じりの口調で言った。
「今日は本当に楽しかったな。今までずっと一緒に生きてこられて良かったよ。」
「なによそれ。変なことを言うのね」
「最近本当に、お前と結婚して良かったなと思うんだよ。ありがとう」
「よく分からないけど、ありがとう。じゃあお休みなさい」
「ああ、お休み」
男は目を閉じ、ゆっくりと呼吸をした。
少しずつ意識が遠のいていく。
体の感覚が無くなっていった。
ここ数年の記憶が走馬灯のように蘇る。
もう一度妻と一緒に過ごせた。
思い残すことは無い。
「本当に、ありがとう」
薄く目を開け、横で寝息を立て始めた妻の姿を目に焼き付けた。
・
静かな電子音。
「…時間です」と、看護師が告げる。
ゆっくりと、男の頭から機器が外された。
・
・
・
「おはよう。」
妻がカーテンを開ける音がした。
外からは鳥の声が聞こえ、キッチンからは、鍋がカタカタと音を立てる音がした。
「私、今日からジムに通ってみようかなと思うの。一緒に来る?」
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