第8話 違和感

4年8ヶ月。

それが俺の時間だった。

俺の全てを使って買った時間だ。


失われた日常を取り戻すために差し出した、文字通りの全財産。


それが、今、終わりを告げようとしている。

未来永劫続くように思えた日々は、妻の認知症発症で突然幕を閉じた。


あの時は、何が終わったのかも分からなかった。

ただ日常が、音を立てて崩れていった。

それは、終わりが見えない迷宮を彷徨うような絶望だった。光の見えないトンネルの中で、ただただ時間が過ぎていく。


だが、ここでは最初から時間が決まっている。

終わりのある幸せ。

期限つきの再会。

終わりが来ることを知っている幸福は、まるで砂時計の砂が落ちていくのを見ているようだ。

一粒、また一粒と、幸福な時間は確実に失われていく。

就寝前、毎日残り日数を計算することが日課になっていた。

その数字を数えるたび、胸の奥が冷たく締め付けられる。


まだ4年。

まだ3年。

もう2年。

……まだ1年。


そう自分に言い聞かせながら、ひとつずつ季節を過ごしてきた。

桜が咲き、新緑が萌え、蝉が鳴き、紅葉が散る。季節が巡るたび、残りの日数が減っていく。

美しい景色のすべてが、終わりを告げるカウントダウンのように感じられた。

時計を見る癖がついた。秒針の音が、心臓の鼓動のようにうるさい。

毎日カレンダーを塗りつぶす姿を妻に笑われた。

「そんなにマメだったかしら?」と、無邪気に首を傾げる妻の笑顔が、余計に胸を締め付けた。彼女は何も知らない。

この世界が、どれほどの対価と、どれほどの悲しみの上に成り立っているのかを。

数字の中に未来を見ていた。

…あと3回、このカレンダーをめくれば終わりだ。手のひらに感じるカレンダーの紙の薄さも、終わりの象徴のように思えた。

胸の奥が、きしむように痛んだ。

死刑執行の日が近付いてきたようだ。

冷たい鎖が全身に絡みつくような感覚。

自分に与えられた猶予が、刻一刻と削られていく。

この幸福な時間は、いつか必ず終わりを告げる。

その事実から目を背けることはできなかった。


「最近顔色が良く無いんじゃない?もう歳なのだから、病院で検査してもらったら?」


妻が心配そうな顔で俺を見ていた。その優しい眼差しが、男の心をさらに苦しめた。

この世界の妻は、彼の心身の疲弊を、純粋な愛情で心配してくれている。

 

「ああ、そうだな。一応病院に行っておくか」


その日の午後、妻と一緒に病院へ向かった。


「特に異常は無いようですね。少し血圧が高いですが、病院で測ると高く出る方もいらっしゃいますから。夏バテかもしれませんので、ゆっくりお休みください」


医師はパソコンの画面を見ながら、興味無さそうに診断結果を述べた。

この世界の医者も、この世界の住人だ。完璧に作り込まれた日常の一部。

彼には、俺が抱える焦燥も、この世界の真実も見えていない。それが、少しだけ滑稽で、少しだけ虚しかった。


「最近の医者はパソコンばかり見ていて感じが悪いわね」


妻が口を尖らせた。

その仕草一つ一つが、昔と寸分違わない。

だからこそ、この世界が「偽物」だと、一瞬たりとも忘れることができない。


「まあ、何もなくて良かったじゃないか。帰りに焼肉でも食べて帰らないか?この近くに、昔よく行っていた店があるだろ」


「そうね。今日はちょっと、贅沢してもいいかも」


妻は笑って、男の腕に軽く触れた。

その手が、少しだけ温かかった。

その温もりが、彼の現実を、一瞬にして上書きする。この感覚だけは、何にも代えがたい。

帰り道、夏の空は茜色に染まりはじめていた。まるで、この時間が燃え尽きようとしているかのような、鮮烈な夕焼けだった。


焼肉屋の前に着くと、男は思わず足を止めた。

入口のガラス戸に、かつての自分たちが映っているように見えた。

ガラスの向こうに映る自分たちの姿は、記憶の中のままだ。若く、希望に満ちて、未来を信じていた頃の姿。

まだ幼かった子供、皿を持つ妻、自分——あの頃の笑い声が、耳の奥にこだました。それは、鮮やかな走馬灯のようだった。

あの頃は、この幸福が永遠に続くものだと、無邪気に信じていた。その無邪気さが、今の自分には、あまりにも遠い。


「何してるの。暑いわよ」


妻の声に我に返り、男は扉を開けた。

彼女は、ただ「今」を生きている。

その強さに、男は救われ、そして苦しめられる。

テーブルの端に座った妻は、冷たい麦茶を一口飲んでから、つぶやいた。


「……最近、変な夢を見るの」


男の心臓が、ドクリと大きく鳴った。


彼女が「変な夢」を見る。


「夢?」


「あなたが、手を振って、どこかに出かけて行く夢。何度も見るの。遠くに行くのだろうということは分かるけど、何故か寂しくはないの。そして、しばらくすると、あなたから電話がかかってくる。『俺は元気だ』と言うだけ。そこで目が覚めるの。変でしょ?」


彼女は、彼がこの世界から「去る」ことを無意識に感じ取っているのだろうか。

それが、この世界の崩壊の兆候なのだろうか。


いや、俺は彼女の世界を構成する重要な要素なはずだ。おそらく俺がいなくなった後、俺が補完され、彼女は平穏な日々を過ごすはずだ。


男は黙っていた。かける言葉が見つからない。

この夢の意味を、彼女が完全に理解する日は来ない。

だが、その予感が、彼女の意識の奥底で囁いているとすれば、それはあまりにも残酷だ。


肉の焼ける音が、ジュウ、と響いていた。その音だけが、不気味なほど鮮明に、現実を主張しているようだった。


「……明日も、どこか行こうか」


男の口から、衝動的に言葉が漏れた。


残された時間を、一秒たりとも無駄にしたくない。彼女の笑顔を、少しでも多く焼き付けておきたい。


「え?」


妻が、珍しく彼の言葉に驚いた顔をした。いつもの彼なら、ここまで積極的に提案することはないからだろう。


「最近行ってない場所、いっぱいあるだろう」


本当に? 行っていない場所など、もはやどこにもない気がする。この完璧な世界は、彼らの思い出で満たされている。


だが、そう言い聞かせることで、残された時間を、もっと「充実」させられると信じたかった。


妻は目を細めて笑った。

「そうね。じゃあ明日は、あの公園に行きたいわ。あじさい、まだ咲いてるかしら。子供達が大きくなってから、公園なんて滅多に行かなくなったものね」


妻の提案に、男は安堵する。彼女が望む限り、この「普通の暮らし」は続いていく。

男は小さく頷いた。この短い頷きに、彼に残された全ての感情が込められていた。


——あと何回、一緒に出かけられるのだろうか。


胸の奥に、数えきれないほどの「あと何回」が、静かに積もっていった。そして、その「あと何回」の重みが、呼吸をするたびに、彼の心を深く、深く沈めていくのだった。


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