第7話 境界
子供たちが帰って行った翌日、妻は普段と変わらず、朝食の準備をしていた。
味噌汁の香りが鼻腔をくすぐり、食パンが焼ける音が耳に心地よい。
食パンに味噌汁というのは自分ではなかなかやらない組み合わせだが、久しぶりに食べると良いものだ。
まるで昨夜の興奮などなかったかのように、日常は穏やかに続いていた。
男は、食後のコーヒーを飲みながら、妻の顔をじっと見つめた。
彼女の記憶の中では、昨日の賑やかな団欒は、きっとごく自然な「いつもの家族の風景」として収まっているのだろう。
その事実が、たまらなく愛おしく、そして同時に、胸の奥に微かなざわめきを生んだ。
「今日は散歩に行ってくるよ。少し遠くまで足を延ばしてみようと思う」
男は言いながら、どこか探るような目で妻を見た。
妻は食器を拭く手を止めず、「あら、珍しいわね。気をつけていってらっしゃい」とだけ言った。
その声に、特別な感情は窺えない。
普段通りの「夫の行動」として受け入れているようだった。
男は玄関で靴を履き、ゆっくりとドアを開けた。外の空気は、いつもと変わらず澄み切っていた。
しかし、一歩外に出た途端、今まで妻と二人で歩いていた時には感じなかった、ごくわずかな差異が男の五感を刺激した。
太陽の光はいつも通り明るいが、どこか輪郭が曖昧な気がする。
アスファルトの匂い、遠くで聞こえる車の音、風が頬を撫でる感覚。
どれも「本物」と寸分違わないはずなのに、まるで高品質な映像を見ているかのような、微細な違和感がまとわりつく。
妻と歩く時は、彼女の記憶が「現実」を完璧に補完し、その世界は彼の五感にも完璧なものとして映し出されていたのだろう。
だが、妻から離れ、彼女の意識が直接及ばない場所では、この世界の「素顔」が僅かに露呈するのだ。
男は、普段は足を踏み入れない路地へと進んだ。
歩を進める程、違和感が増す。
看板に書かれている文字が滲んでいる。
錆びた郵便ポスト、色褪せたポスター。どれもが本物そっくりに作られているが、絵葉書に描かれた風景のような、どこか不自然な完璧さが男の心をざわつかせた。
風が木々を揺らし、土埃を舞い上げる。
それすらも、どこか余所余所しい。
さらに奥へと進む。かつて子供たちが通った中学校の裏手には、見慣れないマンションが建っていた。
ここも、彼の記憶にはない場所だ。
「車を運転出来なくなったら、ここでの暮らしは厳しいから、駅近くのマンションに越したい」
妻の記憶の断片、あるいは彼女の潜在的な願望が、こうして「形」になっているのだろうか。
男は、足を速めた。この世界の「境界」を確かめたくなった。
街の中心部を過ぎ、やがて視界が開けた。ニュータウンのさらに外れ、彼らが家を購入する前は、ただの山林だったはずの場所に、見慣れない風景が広がっていた。
まるで、モネの絵画のようだった。
色彩は豊かだが、細部が描写されていない。
人の姿はまばらで、どこかぼんやりとしている。
遠くに見える建物は、印象派の描く建物のようで、近づけば近づくほど、その粗さが際立つ。
四角い塊が、こちらに向かってくるにつれ、バスへと姿を変えていく。
「妻から離れる程、密度が下がっていく」
この世界は、妻の記憶と、おそらくはシステムが補完する「データ」によって構築されている。
妻の意識の中心から離れるにつれて、その構築の精度が落ちていくのだろう。
つまり、この世界は妻の「意識」が届く範囲においてのみ、完璧なリアリティを保っているのだ。
男は、立ち止まった。目の前の光景は、彼が身を置く世界の真実を静かに突きつけていた。
これは、夢ではない。しかし、完璧な現実でもない。
妻の意識が紡ぎ出す、途方もなく広大な「個人の世界」なのだ。
「いいじゃないか。」
男は深く息を吸い込んだ。
遠くの不完全な風景も、足元の完璧に再現された石畳も、彼にとってはすべてが尊い。
なぜなら、その中心には、愛する妻の笑顔と、失われた「普通の暮らし」があるからだ。
男は来た道をゆっくりと引き返した。
彼の心は不思議と穏やかだった。この世界の「仕組み」を理解したことで、彼は自身の選択に、より確固たる確信を得たようだった。
第七章 満たされる日々
「ただいま」
玄関を開けると、奥から妻の声がした。
「おかえりなさい。早かったわね」
その声に、男は自然と笑みがこぼれる。
この世界に来てから、何度このやり取りを繰り返しただろう。
その一つ一つが、失われた日常を取り戻す、かけがえのないピースだった。
リビングでは、妻がテレビを見ながら、楽しそうに編み物をしていた。
テレビの司会者は先週急逝が報じられた芸能人だ。
男はソファに身を沈め、今日の散歩で見た景色を思い返した。
あの粗雑な風景が、この完璧な日常の裏側にある。
それでも、目の前の妻の笑顔は、何よりも雄弁に「今」を語っていた。
この世界は、妻の記憶が織りなす、彼女にとっての真実なのだ。
その中に、自分が存在することが許されている。
その事実が、男の心を深く満たした。
季節は巡り、夏が過ぎ、秋が訪れた。
朝晩は冷え込むようになり、妻は男に「温かいものを食べましょう。準備も楽だしね」と、鍋料理を食卓に並べることが増えた。
湯気の向こうに、頬を赤らめた妻の笑顔が見える。
男は、温かい鍋を囲むたび、現実世界で失われた「家族の温もり」を再確認した。
それは、ただの食事ではない。共に時間を過ごし、共に生きた証だった。
ある晴れた日、二人は庭で過ごした。
妻は、花壇の手入れをし、男はその隣で、読みかけの本を開いた。
風が吹き抜け、庭木の葉がさやさやと音を立てる。
男は、本から目を上げ、妻の横顔を眺めた。額に滲む汗、土に汚れた指先。
そのすべてが、今では彼にとっての「現実」だった。
午後の日差しが傾き始めると、妻が「そろそろお茶にしましょうか」と声をかけた。
男は頷き、二人でリビングに戻った。
淹れたての紅茶の香りが部屋に満ちる。
他愛のない会話が続く。
今日の出来事、昔の思い出、そして明日の予定。
この世界では、ただ、穏やかな時間が、ゆっくりと流れていく。
昔のアルバムを引っ張り出して、二人で眺めることもあった。
妻は、写真に写る幼い子供たちの姿を見て、「野球もサッカーもすぐ辞めちゃったけど、水泳だけは続いたわね」と笑い、男は、その横で静かに頷いた。
写真の中の記憶が、目の前の現実と重なり合う。
この世界は、彼らの過去の幸福を、完璧な形で再現し続けている。
男は、その再現された幸福の中に、自らも深く溶け込んでいくのを感じていた。
夜が更け、寝室の明かりを消すと、妻は男の腕の中にすっぽりと収まった。
「おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
男は、妻の温もりを腕に感じながら、静かに目を閉じた。
この世界での日々は、彼にとって、紛れもない「人生」となっていた。
夢の中で、彼は再び、若き日の妻と、笑い合う子供たちの姿を見た。
記憶の中で夢を見る。
馬鹿げたことに思えるが、目を開けると、そこには夢の世界でも会うことが叶わない妻がいる。
それは、この世界が彼に与えてくれた、最も甘美な贈り物だった。
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